Contenu connexe
Plus de Kunihiro Maeda (12)
「知」が拡散する時代アーカイブ・キュレーション
- 2. ----
しかし、芸術が芸術である以上、それは範囲=境界を持つはずである。 海洋的な」
「 この場所(site)
を、どうやって収容するのか。私は非場所(Non-site)を造成した。それは物理的に、場所の崩
壊を収容する。この容器は、ある意味で断片そのものであり、三次元の地図と呼びうるもので
ある。「ゲシュタルト」や「反形式」などに訴えずとも、それは実際、一層甚だしい断片化の断
片(a fragment of a greater fragmentation)として存在しているのである。非場所は、自らの
収容の払底を収容しつつ(containing the lack of its own containment)、全体からは離脱して
いる三次元の<遠近法>である。その名残に神秘的なものなどなく、終わりや始まりの痕跡も
ない。
----
ここに、「断片化の断片」を収容するコンテナーというモティーフが出てきます。よく「コンテ
ンツ・デザイン」なんていう言葉を耳にしますが、実際にアーカイブ作業の現場にいると、コ
ンテンツよりもむしろコンテナーのほうを意識します。図書館であれば図書ですが、アーカイ
ブでは、そのままではどうにもならない、いわば分別されていないゴミのようなものが扱われ
るわけで、そのような雑多ものを収容するコンテナーをどうやって設計するのかが問題になる
んです。そのようなコンテナー、容器をいかにデザインするのか、それこそ「知が拡散する時
代」にあって、どのような容器を用意できるのかということが、わたしからの最初の問題提起
です。
昨年の 10 月に、東京国立近代美術館で、美術館や美大の図書館の関係者らとのカンファレンス
があり、「アーカイブ」について考えるときに用いられうるモデルについて議論しました。その
ときわたしは、二つのイメージを提示しました。ひとつは、北海道の野付半島などにみられる
「砂嘴」という地形です。海水によって運ばれた砂が対流などの作用である場所に堆積してで
きる地形なのですが、この「砂嘴」という地形の構成要素、つまり砂が、この土地に固有のも
のではなく、いろいろなところから運ばれてきた断片の寄せ集めであり、「断片化の断片」であ
るというところが面白いんです。もうひとつのイメージは、ロバート・スミッソンの作品〈The
Spiral Jetty〉です。昨年のカンファレンスでは、この二つをモンタージュすることで、二重の
アーカイブ・モデルについて説明しました。
今日は、より具体的なアーカイブ・モデルを提示したいと思います。そこで、『アルバム・銀座
八丁』という印刷物を、「アーカイブ的な思考」のモデル化に成功しているひとつの事例として
ご紹介します。木村荘八の『アルバム・銀座八丁』(1954 年)は、長さが 5 メートル弱の蛇腹
折りの本で、銀座の中央通りに面した新橋から京橋までの街並みを撮影し、紙面上でその中央
通りを再構成したものです。さらに、建物ごとに 4 つずつテナント名が記されているのですが、
- 3. これらはそれぞれ 1953 年 12 月(戦災後)、1942 年 7 月(戦災前)、1930 年 12 月(震災後)、
1921 年 8 月(震災前)という 4 つの時代のテナントを示しているんです。4層の文字列という
フォーマットを設けて、そのフォーマットを反復するだけで、銀座通りに沿いのすべての建物
の、テナントの変遷が分かるようになっています。建物がもっているライフスパンよりも短い、
出版物の宣伝や映画の看板なども視覚化されます。いずれにしても、この印刷物の紙面=路面
は、然るべき編集作業によって、抽象的に舗装しなおされたものとして実現されているんです。
『銀座八丁』は、一望された景観ではなく、つぎはぎだらけのイメージであり、徹底的に構成
的であり、むしろ多分にフィクショナルであるからこそ、記録としての強度をもっているので
す。この印刷物は、「アーカイブ」というものがもっているフィクショナルな質を示す好例とい
えます。
ところで、いま「編集」という言葉を使いましたが、最後に、「編集」とアーカイブの関係に関
するジョルジュ・ディディ=ユベルマンの言説をふり返って終わりとしましょう。彼は『イメ
ージ、それでもなお』(2002 年)の中で、アルレット・ファルジュを引用しながら次のように
述べています。
----
資料の「蓄え」の中に一度でも足を踏み入れさえすれば、アルシーヴが記憶に、クロード・ラ
ンズマンの見て取ったような硬直した意味、固定したイメージを与えるのではないという具体
的な経験を得るには十分である。アルシーヴは常に—弛まなく—ひとつの「構築中の歴史であ
り、その帰結を全体的に掌握することは決してできない」。どうしてそうなのだろうか。なぜな
ら発見のひとつひとつは、念頭にあった歴史の中の裂傷として出現するからであり、当座は形
容不能なその単独性を、研究者はすでに自分が知る全てからなる織目に縫い合わせようと試み、
可能ならば当該の出来事についての再考された歴史を生み出そうとする。
「アルシーヴは既成の
イメージを壊す」とアルレット・ファルジュは正当にも記している[…]。アルシーヴは一方で、
その「断片」的な側面、もしくは「そのような形で語られることを少しも望まなかった生たち
の荒々しい痕跡」によって、歴史的理解を細断する。他方でアルシーヴは、「突如として未知の
世界へとつながり」、再構成すべき解釈の「生きた素描」をわれわれにもたらすような、絶対に
予測できない「現実効果」を放出する。
----
ディディ=ユベルマンはつづけて「アルシーヴが絶え間ない再編集により、あるいは他のアル
シーヴとのモンタージュにより常に練り上げられる必要がある」と言っています。いづれにし
ても彼の言説は、アーカイブがどのようなかたちでフィクション、あるいはドキュメンタリー
とかかわるのかという問いの中で展開されています。
- 5. されています。
次に複写技術についてですが、現在のゼロックスの複写機のもとになるエレクトロフォトグ
ラフィーの発明は、チェスター・カールソンによって 1940 年ごろに特許が取得されました。私
たちが日常的に接しているコンビニのコピー機や、キンコーズのようなサービスを生み出すに
至った複写技術の革新も、先程のメメックスとちょうど同じ時期にはじまったものなのです。
だとすると、印刷された本から電子書籍への移行についても、70 年ぐらい前から進行してきた
革命の一端であり、近年の電子書籍デバイスの発売なども、いわば過渡期の現象のひとつにす
ぎないものとして俯瞰的に見ることができるのではないでしょうか。
一方の情報ネットワーク技術が、膨大な情報の断片をいかに組織化・体系化された知識にす
るかという問題であるとすると、他方の複写技術は、膨大な文書を容易に複製し、いかに管理・
保管するかという問題を私たちに投げかけています。この両者の技術に加えて、さらに検索、
スキャニング、画像処理、人工知能、セキュリティといった様々な技術と複合されていく技術
革新のプロセスが、作者や書籍販売業者、印刷・製本業者などの各産業も関連する複雑な社会
状況のなかで、ゆっくりと進行しているわけです。
そのなかで重要となるのは、それら複数の技術をどのように複合して組み合わせるかという
視点だと思います。どのように技術を複合すれば、情報の生産・流通・消費の新しいサイクル
を生み出せるのか、ということを考えなければなりません。しかし、電子書籍において新しい
サイクルを実現するには、解決すべきたくさんのハードルがあります。たとえば電子出版物流
通センターを実現するには、著作権者や出版社からのデータの提供、データの規格の統一、端
末の普及、利用範囲を制限する技術、少額決済の普及などさまざまな課題があるわけですが、
実際にこれらの課題をひとつひとつ解決しようとするとかなりの時間がかかるでしょう。
であるならば、いま実現可能なことで、新しいアーカイブの利用の可能性を拡大できるよう
な情報のサイクルのモデルを構想することはできないでしょうか。その課題に対してヒントを
与えてくれるような現代の欧米のデザイナーやアーティスト、編集者たちが実践している活動
のモデルを、いくつか参考事例として紹介したいと思います。
たとえば、ニューヨークで2人のデザイナーが立ち上げたデクスター・シニスターという出
版工房兼書店では、大量生産される印刷物ではなく、必要な人に必要な量の情報が届けられる
仕組みを考えています。彼らがユニークなのは、トヨタ自動車が提唱したジャスト・イン・タ
イムの生産方式に着想を得て、いわゆるオンデマンド的な印刷物の提供と、それを流通させる
ための図書館のような場所といった生産と流通のサイクルそのものを考えるための実践的なモ
デルを提唱したことです。安価で手近な技術的環境さえあれば、それを新たな発想で組み合わ
せることで新しい情報伝達のサイクルを生み出せるという、ひとつの回答例を示してくれます。
また、オランダの美術館が発行する「F.R.ディビッド」という雑誌は、毎号、編者たち個人の
関心にもとづいて編まれたアンソロジーや引用集のような体裁を採用しています。この「引用」
や「転載」された種々雑多な文章を同時併置する誌面は、過去の膨大なアーカイブに死蔵され
ている蔵書にアクセスするための見事な編集的な切り口を示した好例といえるでしょう。
- 6. 詩人のケネス・ゴールドスミスが創設した UbuWeb というウェブサイトは、膨大な現代美術
関連の文献を収集して転載しているオンライン上のアーカイブです。このサイトには、キュレ
ーターや批評家たちがここで蓄積された文章から数点選んで提示するというセクションが設け
られており、キュレーションされた視点を他人と共有することが、アーカイブにアクセスする
ための窓口として機能することが提示されています。
このような事例を踏まえて、それを図書館のサービスと照らし合わせてみると、例えば、デ
クスター・シニスターのようなオンデマンド的な流通のサイクルは、国立国会図書館が提供し
ている、個人がオンラインで複写してほしい論文を一部単位で申し込んで郵送してもらえる既
存のコピーサービスに似ているようにも思えてきます。また、残り二つの事例からは、図書館
のアーカーブに蓄積された膨大な文献をもとに、個人が編集的な視点からアンソロジーを編ん
で公開する、ということができそうだな、ということも容易に想像できるでしょう。さらに、
それを私的複製の範囲で複写することも個人単位ならば問題がないはずです。図書館では書籍
であれば半分まで、雑誌なら記事単位で複写できますから、関心があるテーマについて編んだ
アンソロジーの複写を自分の手元に一部に置いておくことも可能です。
そうすると、図書館の既存サービスを利用した、次のような印刷物の流通モデルが見えてき
ます。ある編集者やキュレーター、ひいては利用者自身があるテーマについてアーカイブのな
かから編集的に選択した文献リストにもとづいて、万人が一部単位でコピーを複写サービス経
由で郵送・決済まで含めて簡単に入手できるシステムが、すでに私たちの目の前に存在してい
る、と言えるのです。さらに言えば、たとえばレファ協で「複写の歴史に関心がある」という
質問が寄せられたことに対して司書や専門家などから提示される文献リストが公開されている
とします。その同じテーマに関心を持つ別の人でも、気軽に選択された文献のコピーを入手で
きるように、シームレスにアクティビティがつながっていくようなオンライン上のプラットフ
ォームが構築できたならば、それは編集的な視点から拡散していく知の世界であるといえるで
しょう。こうした図書館の「複写」というサービスを、現在すでに実現可能な出版流通のモデ
ルとして捉えなおすことの可能性を問題提起して、僕の発表を終えたいと思います。
氏原:
今度は一転して、アーカイブの利用という観点となりました。いかに個の読み解きをアーカイ
ブに対して許容していくかという話として聞くこともできるし、同時に、書物というひとつの
完結したコンテンツを貸し出すのではなく、書物を著作や情報という単位に解体した上で新た
な著作をつくるような情報源として使ってみてはという提案ともとれました。アーカイブはつ
ねに再編集されつづけると上崎さんがおっしゃっていたと思いますが、そのプロセスに個人の
知をいかに取り込んでいくのかという話にもつながる提案だったと思います。
それについては後ほど議論するとして、最後に前田さんのお話をうかがいたいと思います。
- 7. 前田:
2001 年にコミュニティサイト「関心空間」をつくった当時、グーグルが成果を上げていたペー
ジランクの基礎となるリンクポピュラリティの考え方に感銘を受け、人間の関心にもとづくペ
ージランクをつくろうと考えました。それ以来、その関心空間においてソーシャルグラフや関
心グラフ(Interest/Taste Graph)による推薦システムを研究・開発してきました。
最初の例は、2005 年にデザイナーの中村勇吾さんとともに、関心空間における関心の分散を可
視化しようとしたコンテクストビューワです。そのときの彼のコンセプトは情報には粒度があ
るというもので、その粒度の広がりを、コンテンツという点から入って本のようにひろがって
いくものを空間的に収めるというものでした。しかし、その後、レム・コールハースという建
築家が著書『HERVARD DESIGN SCHOOL GUIDE TO SHOPPING』において、デパートや
ショッピングモールにエスカレーターが組み込まれたことにより、連動購買が生まれたと言う
論説を知りました。このとき、インターネット上の EC サイトにないものに気づきました。つま
り、視覚の周縁にあるにもかかわらず、意識の焦点が合っていないものへの認知を空間的に埋
め込むことです。そのことが、見えている関係性以上に重要であると思い、文脈 — コンテン
ツではなくコンテクストというべきものですが — にもとづいたシステムをつくり、個々人が
言葉にしにくい趣味や嗜好、価値観などを加味して、とあるコンテンツと個人の出会いを助け
る仕組み(マッチングシステム)をつくろうと考えるに至りました。
このようにいうと人工知能学会に属して協調フィルタリングのような仕組みを研究している人
と思われるかもしれません。たしかに、かつてはそのようなアプローチで研究していましたが、
そもそもその手法に限界があることに気づき始めました。
というのも、一般的な推薦エンジンやマッチングシステムをつくるときには、あるコンテンツ
のメタデータを多次元化して、それにもとづいて各コンテンツ間を関係づけながら、関係を距
離に置き換えます。しかし、メタデータが増えると次元が増えていき、距離、すなわち関係の
近さを計るための次元が膨れあがり、結局は人間が理解するために最終的に次元を縮減しなけ
ればいけなくなります。
そこで、先程出た言葉ですが、私も当初はコンテンツを収めるコンテナを多次元的かつトポロ
ジカルにネットワーク化して、その関係を特定の個人の視界(意識の範囲)に分かりやすい形
に収めるインターフェイスが将来的にできると考えていましたのですが、問題はそう簡単では
ないのです。たとえば、単純に音楽をデジタルサンプリングしたときに、元の音楽がもつ可聴
範囲外の情報が抜け落ちることがありますが、その抜け落ちたところに人間にとって重要な情
報がある可能性がありますが、コンピュータにはそういった意味が分からないのです。つまり、
統計的手法による次元削減にともなって、人間にとって意味があるが暗黙知としての意味が縮
減される可能性があるわけです。
あるセミナーで東大情報学環の池上高志さんが「人間が複雑なものを複雑なまま理解するため
の高次な言語体系を開発しないと科学はこれ以上先にすすめない」とおっしゃっていたのです
が、まさにその通りで、次元を縮減することなく、多次元を多次元のままに伝える技術(もし
- 12. しても、個人やコミュニティが主観的な立場で運営していたものが企業公認のコンテンツにな
ったり公的なものになったり、オープンになったりクローズになったりしていて、そういった
例はたくさんあると思います。
ちょっと難しい話しになりますが、われわれ人間はおおよそ一秒に 1100 万ビットの情報を体表
から得ていますが、脳にはそのうち 50〜70 ビットほどしか到達しません。また意識に到達する
のに現実から 0.5 秒も遅れているというのです。何が言いたいかと言うと、ぱっと見わかるコン
テクストというのは、意識に到達する前に反射的に解釈している可能性が高くて、そういった
文字にしにくい情報でも、誰でも共有出来るメタデータがあって、誰でも付与したりすること
が出来ます。例えば、あの音楽は明らかにあのミュージシャンの影響が強いみたいなことも統
計処理をして、音列の合致率を見ている訳ではありませんよね。アフォーダンスやクオリアの
話しと通じていますが、人間医はそういう大量の情報の近似や差異を瞬時に分類する能力があ
るのですが、それを格納するデジタルなコンテナがない状況だと考えています。Wikipedia は
コンテンツのアーカイブだが、今度はコンテクストのアーカイブが出てきて、俯瞰性を高めよ
うとして、コンテクストはいつのまにかコンテンツになるという繰り返しがなされるだろうと
思っています。
上崎:
俯瞰したいという欲求と、もっと解像度がほしいとか細部の情報がほしいといった欲求は両立
し得ないものだと思います。ところで、あえてアーカイブと図書館を同一視して言えば、
「編集」
が進んでいくと、アーカイブも図書館も、むしろどんどん「あれもない、これもない」といっ
た状態になると思う。この段階に入ったとき、「これがある」という情報だけではなく、「これ
がない」という情報をも伝達可能なリストが提示できるかどうかが、コレクションとしての図
書館と、アーカイブとしての図書館とを隔てるのではないかと思います。そしてこの隔たりは、
コンテナー設計のレベルで議論されるべき問題だと思います。
質問者:
図書館はプレーンなものであるように振る舞うが、実際のところはそうではなく、傾いている
と思います。分類という行為自体がものすごい編集行為の産物といえますし、レファレンスと
いう行為も情報の取捨選択です。そういった抽象的なレベルでの編集というものは今後どうな
っていくと思いますか。
前田:
図書館や歴史と言うのは普遍性を追求するもので、学問的には客観的事実を追求するのが本質
です。しかしながら、本当の中立とか客観性などは存在しないのは自明の事です。要は、姿勢