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沼津の商店街―戦後昭和史
―焼け野原から逞しく起ち
上がった沼津の商人たち―
沼津上本通り商店街振興組
合 理事 長谷川 徹
• 記録をまとめた理由は?
昭和 32 年(1957)に地
方第 1 号の支店として沼津
店が進出してから半世紀に
わたり沼津市民や周辺地域
の住民に親しまれてきた西
武百貨店。
平成 25 年(2013)1 月
31 日の西武沼津店の撤退、
その日の夜の閉店セレモニ
ーを記録しようとして出か
けたとき、その現場で多く
の人たちが送別の悲しみを
感じている様子を目の当た
りにしたことが主な理由で
す。
【参考資料 新東亜の幹線
東京~下関に廣軌鐵道(弾
丸列車用)を敷設
(昭和 13 年 12 月 26 日東
京朝日新聞)
• 弾丸列車線路予定地
兎に角将来の大都市空襲備
えて帝都はすべて地下線と
する、都心から発車した列
車が顔を出すのは神奈川縣
で、そこから新丹那トンネ
ルを通過して沼津へ出で、
静岡市のやや北を経て浜名
湖北を通過して名古屋に出
る】
沼津商業界昭和戦後史
昭和 20 年 8 月 中島飛行
機株式会社三島製作所木瀬
川分工場、富士産業株式会
社と改称
昭和 20 年 10 月 沼津駅引
揚・復員者案内所開設
昭和 20 年 11 月 米軍 60
名千本中央青年学校に進駐
昭和 20 年 12 月 本田町海
軍共済病院、沼津市立病院
となる
昭和 21 年 復興が始まる上
本通り
昭和 21 年 映画館建設ラッ
シュ 《平和館:収容人員
306 人 ( 城 内 元 龍信亭
跡) ・沼津松竹:収容人員
408 人 (本町元杉本旅館
跡) ・沼津映画劇場:収容
人員 506 人(大手町元城内
呉服店跡):復興》(本通り
東宝劇場:収容人員 570
人・本町演劇館;収容人員
270 人・本通り沼津第一東
宝館:収容人員 509 人:新
築)(静岡新聞昭和 20 年 12
月 21 日号)
昭和 21 年 1 月 15 日 御殿
場線大岡駅開設
昭和 21 年 2 月 下香貫旧
海軍技研の建物を市立第二
病院とする
昭和 21 年 3 月 煙草ピー
ス・コロナ発売(県内静岡・
浜松・沼津・熱海四都市の
み販売)
昭和 21 年 5 月 1 日 沼津駅
前で戦後初めてのメーデー
3500 名参加
昭和 21 年 6 月 17 日 昭和
天皇沼津行幸、片倉工業等
視察
昭和 21 年 8 月 富士製作
所賠償指定管理工場となる
(昭和 27 年 4 月まで)
昭和 21 年 不二家食品沼津
工場 水飴製造で復興 (昭
和 11 年 4 月沼津工場設立:
缶詰製造、乳製品の食品工
場)(ミルキーは沼津工場で
生産された水飴と練乳で開
発製造昭和 26 年銀座不二
家で発売)
昭和 21 年東京麻糸紡績株
式会社沼津工場スフと麻の
混紡製造で復興
昭和 21 年大川螺子製作所
民需に転換製造再開
(片浜村出身の大川栄作氏
が大正 13 年東京で創業、
昭和 13 年沼津工場新設本
社所在地とした)
昭和 21 年 10 月 5 日 東部
商工会議所創立:岡野豪夫
会頭(昭和 30 年現在の沼津
商工会議所へ認可)
2
昭和 21 年 11 月 1 日~3 日
沼津復興祭(狩野川花火大
会復活)
昭和 21 年 11 月 3 日 新憲
法発布祝賀・沼津港開港祝
賀・沼津港線開通 (狩野川
河口内港)
昭和 22 年 旧百貨店法廃
止
昭和 22 年 戦後第 1 回歳
末売り出し(主催商工会議
所・後援市役所)
昭和 22 年 10 月 全国木工
機械展覧会:富士製作所会
場
昭和 23 年 4 月 1 日 大洋
無尽株式会社沼津市上土町
東側に進出(昭和 26 年 10
月 20 日株式会社太陽相互
銀行と改称、その後合併を
して静岡相互銀行さらに静
岡中央銀行となる)
昭和 23 年 6 月 観光協会再
発足(昭和 27 年観光協会社
団法人で新発足)
昭和 23 年 6 月 高島町・
本田町より市議会へ沼津駅
北口設置請願
昭和 23 年 戦後第 1 回中元
売り出し(主催商工会議所)
昭和 23 年 8 月 沼津市警
察署発足(内務省警察から
自治体警察へ移管)
昭和 23 年 8 月 1 日 沼津夏
祭り開幕
昭和 23 年 10 月 大阪麻糸
株式会社が工場を沼津市東
熊堂に建設
昭和 23 年 11 月 上滝圧力
機株式会社再建
昭和 23 年 12 月 株式会
社産業科学研究所設立(元
沼津海軍技術研究員集団:
千本郷林)
昭和 23 年 12 月 第 3 代会
頭石橋治郎八就任(前任者
第 2 代会頭岡野豪夫から)
昭和 24 年 2 月 沼津商工
会議所第 1 回役員会(議題
沼津駅北口設置・仮称片浜
駅新設請願)
昭和 24 年 3 月 芝浦機械
製作所再発足(企業再建整
備法施行発令)
昭和 24 年 3 月 国産電機
再発足(企業再建整備法発
令)(昭和 21 年 2 月 20 日
軍政部より民需品転換許可
がでる)
昭和 24 年 3 月 昌和洋行
(昌和製作所)沼津工場再
稼働(企業再建整備法・昭
和 35 年山葉発動機傘下)
昭和 24 年 3 月 旧海軍工
廠跡地をめぐり
金岡開拓組合と岳南組合と
の乱闘事件
昭和 24 年 3 月 24 日 沼津
市大門町大火 122 戸消失
『 大門の火事は二十四日
午後三時頃に五十メー ト
ルばかり北にある大通りを
渡ったかぶとや玩具店のセ
ルロイドに何かの火が移り、
無風状態だったのに出火と
共に火勢は強くなり火勢は
西へと拡大した。安田屋の
計ちゃんと二人で火元の隣
の下駄屋の荷物を、往来へ
運び出していたのだが。火
勢と共に吹き出した強い風
に煽られて、いつしか火は
大通りを南に渡って今は裏
の方から、凄まじい火勢で
紅蓮の炎は戦災バラックを
瞬時に舐め尽して我が家に
迫って来る。
あの広い道路の向い側に出
した家具も輻射熱で今にも
燃え出しそうだった。火も
ないのに突然軒先から発火
した。乾燥し切った上に、
あの高温に達すると火の気
は無くとも燃え上った。バ
ケツの水をこの家具にかけ
ると一瞬にして水蒸気とな
り 激しい音だけが残った
あの日のことが今も眼底に
残る。
水の便が悪くて消防車から
の放水は殆んど無かった。
僅かに清水村の消防団が狩
野川から中継で送水してい
たから、この消防士に頼ん
で地下室のあたりに放水し
て貰った。若い三人が道路
上の荷物の夜番をしてくれ
たので、くたくたに疲れた
3
体を八幡町で仮眠した。
一夜明けた火事場では焼け
残った畳や建具の争奪戦が
展開されていた。戦災バラ
ックのとんとん葺の屋根ば
かりだったから意外に火の
廻りが早かったし、又思い
掛けない飛び火の原因にな
った。吾が二階家も流石の
火勢に骨組みだけ残す姿に
なるのに三十分とはかから
なかった。眼の前で総べて
が灰燼に帰し、羽目板は宛
も紙切れ同然にバリバリ音
を立て、四散した。戦災バ
ラックは火災をより大きく
するばかりだった。隣の岡
田さんが火事の最中に男泣
きしている姿には哀れを催
した。尤も百数十軒の罹災
者の中で、火災保険加入の
最高が古安肉店の百万円で
あり、三番目に多い自分が
七十万円だった。材木もま
だ統制品であったが、火事
見舞に来てくれた下河原の
鈴木製材にこの時既に出荷
の承諾を得て居た。【類焼と
発病(一杉和一著「古希」自
叙伝より)】』
昭和 24 年 6 月 1 日 沼津―
静岡間電化(昭和 24 年 6
月 日本国有鉄道設立)
昭和 24 年 7 月 中小企業
等協同組合法公布
昭和 24 年 7 月 1 日 三島
信用金庫沼津支店開店:大
手町
(昭和 26 年 7 月幸町支店
開設:昭和 35 年 5 月 4 日
カトリック教会跡地に移転
新築・平成 19 年 12 月 10
日建替新築)
昭和 24 年 12 月 沼津・三
島間直通電話開通(市外交
換不要になる)
昭和 25 年 3 月 1 日 東京―
沼津間に湘南電車運転開始
(東京・沼津間 2 時間 30
分の快速電車)
昭和 25 年 5 月 「弘報ぬま
づ」創刊第一号発行
昭和 25 年 4 月 3 日 沼津信
用組合設立(昭和 26 年沼津
信用金庫に改組)
組合長名取栄一・出資者
1109 人・出資金 4,464,600
円
『昭和20年の八月十五日
に戦争は終わったものの、
市街地は焼野原と化してし
まった。市民は家を焼かれ
財を失なって、芒然自失し
た。農・漁民や俸給生活者
はとにかく、一番困まった
のは、中小企業、商店街の
人たちであった。復興に先
立たつものは金であった。
バラックの借店舗は何とか
建てたが、商品を仕入れる
資金を簡単に貸してくれる
ところがなかった。名取翁
は、沼津市の戦災復興のた
めには、何よりもさきにこ
の中小企業者たちを再起さ
せる金融機関をつくらなけ
ればならないと考えた。岡
田吾市、勝亦干城、竹内鉄
次郎、寺尾利平、木村清太
郎、諏訪健次郎、塩谷六太
郎、植松与三郎、杉山金次
郎、宇野秀吉氏等と相談し
て、中小企業等協同組合法
による沼津信用組合の創設
にとりかかった。
名取翁が発起人代表となり、
当時の商工会議所議員が発
起人となって、昭和二十五
年四月三日に沼津商工会議
所ホールで創立総会をひら
いた。組合長に名取栄一が
満場一致で推され、専務理
事に寺尾利平、常務理事に
木村清太郎、理事に岡田吾
市、竹内鉄次郎、杉山金次
郎、増田慶三、諏訪健次郎、
西山倉吉、渡辺好郎、石橋
治郎八、塩谷六太郎、勝亦
干城、植松与三郎、小池直
次郎、鈴木万吉、宇野秀吉、
杉山猪作、山田長次郎、山
本清、金子一六、渡辺唯吉、
矢田唯雄、後藤寿雄、監事
に佐藤英一、大古田金太郎、
柴田正、植松興作、小川藤
太郎の諸氏が選出された。
そして同年四月二十日から
商工会議所階下の一部を利
4
用して業務を開始した。出
資者は千百九人、出資額は
四百四十六万四千六百円で
あった。 :名取栄一翁小伝
より』
昭和 25 年 4 月 千本公園
に市営水族館開館
昭和 25 年 5 月 駿河無尽
株式会社本店三枚橋から大
手町へ移転(昭和 27 年 6
月 30 日静神相互銀行に改
称、昭和 32 年 9 月 21 日静
岡相互銀行と合併、その後
静岡中央銀行と改称)
昭和 25 年 6 月 22 日 沼津
商工会議所: 「全市連合中
元大売出し実施要綱」(七
夕祭り:七夕飾り・七夕行
列)
昭和 25 年 6 月 25 日 朝鮮
動乱勃発
昭和 25 年 7 月 泉水源の
沼津市営水道、給水開始
昭和 25 年 7 月 内浦湾周
遊龍宮丸運行
昭和 25 年 10 月 国有財産
千本公園の市へ払い下げ決
定(28000 坪・90 万円)
昭和 26 年 6 月 矢崎電線
(株)(昭和 4 年 5 月藤倉
電線社員矢崎卓美が東京芝
に電線販売会社設立)沼津
兵器跡に沼津製作所進出
(昭和 33 年沼津工場完工)
昭和 26 年 6 月 富士ロビ
ン(株)沼津製作所進出(昭
和 18 年中島飛行機三島製
作所木瀬川分工場跡)
昭和 26 年 8 月 清水銀行
大手町に沼津支店開設(昭
和 35 年鉄筋コンクリート
で新築する)
昭和 26 年 9 月 8 日 サン
フランシスコ平和条約・ 日
米安全保障条約調印
昭和 26 年 12 月 沼津専門
店会設立(月賦販売システ
ム)
(沼津リンクスストアから
27年専門店会へ名称変更)
『石橋治郎八著シルク紳士
まかり通るより:次に力を
入れたのは専門店会の育成
である。そのころチケット
で月賦販売する専門店会が
関西からはやってきた。沼
津でも有志が集まって専門
店会を結成する計画が進め
られた ところがその資金
はわずかに三十万円だとい
う 私は顧問の資格でその
総会に出席して一席ぶった
「三十万円の資金ではせっ
かく専門店会をつくっても
動きがとれないのではない
か せめて百万円にしなさ
い そのかわり 私が貴任
をもって静岡銀行から一千
万円の信用融資を取りつけ
て あ げ ま す 」 。
もちろん会員たちは一も二
もなく賛成した 出資金を
百万円に増額する件はただ
ちに可決されたのである。
こうして専門店会ができる
と、 その PR のため大口消
費者である沼津を中心とし
た有力工場の総務関係者を
招いてパーティを開いた。
私はその席上、商工会議所
会頭として次のような挨拶
を述べた。
「専門店会がチケットで月
賦販売をやるというと、あ
なた方はおそらく市価より
高く売りつけるのではない
かとお考えになるかもしれ
ない。また、 それが従来の
月賦販売の常識でもありま
す。しかし私が顧問として
専門店会に関係する以上、
現金正価と変わらない値段
で販売するということをこ
こで約束いたします。どう
してそういうことができる
かと不思議に思う方もいる
かもしれませんが 当会で
は静岡銀行から一千万円の
融資を受けることになって
おリ 商品はみな現金で仕
入れるので安く入手できる
のです だからあなた方に
も安い商品を提供できるわ
けであります。どうか、そ
の点は安心して当会とお取
引き願いたい」正価で月賦
この方針は図に当たった。
その後沼津専門店会は年々
5
発展し、静岡県下でも優秀
な成績をあげるようになり、
全国の専門店会のなかから
表彰されるまでになった。
同会が現在なお発展途上に
あることは、まことによろ
こばしいことである。大き
な企業は放っておいても自
分でやっていけるが、小さ
な企業はそうはいかない。
私は会頭としての仕事の重
点を中小企業の育成におい
て努力したつもりである。』
『沼津専門店会とはどんな
組識なのだろうか。
その発足は 31 年前の昭和
26 年に遡る。 当時、 全国
的に日専連運動が展開され
ており、静岡に専門店会が
できたことにより.沼津に
も創ってはどうかと、市内
の有力専門店の有志が集ま
り、設立準備を初めたとい
う。 当時は 「沼津リンク
ストァ」という名称で、発
起人には、柴田屋柴田正、
正札堂田村靖雄、タチカワ
洋装店立川松吉、仁藤履物
店仁藤英一、光音カンパニ
ー牧野洋三、大橋果物店大
橋規一、ヌマヅ薬局岡田仁、
高村洋服店高村銀作、 ヨ
シムラ眼鏡店吉邨勇、トモ
エヤ靴店佐野薫、伊豆屋呉
服店土屋秀夫の諸氏が並ん
だ。加盟店は一業種一店が
原則であったが、一業種三
店程度にワクを広げ、参加
を募ったという。(昭和56
年7月ペルソン誌)』
昭和 26 年 丸高パチンコ
店転業開店(昭和5年大手
町で丸高家具店開業)(この
ころ沼津市内に 102 軒のパ
チンコ店あり)
昭和 27 年 2 月 沼津商店
街連盟設立
昭和 27 年 2 月 29 日 沼津
ロータリークラブ発足(チ
ャターメンバー28 名)
昭和 27 年 3 月 沼津観光
協会社団法人で新発足
『石橋治郎八著シルク紳士
まかり通るより : 私は沼
津観光協会長を兼任してい
た。 昭和二十七年のこと、
夏の人寄せに夏祭りを計画
し、 手はじめに西条八十、
中山晋平両先生に作詞作曲
を依頼して「沼津音頭」 と
「沼津夜曲」をつくっても
らい、レコドーにも吹き込
んで、振リ付けも頼み、 こ
れを町内を通じて普及する
と同時に、夏祭りの気分を
高めるように努めた。夏祭
りは八月一日から三日問と
し 観光協会の主催で狩野
川河口の御成橋を中心に仕
掛け花火なども用意して盛
大な花火大会を開いた。私
はこの夏祭りの宣伝のため、
沼津の芸者を狩り集め、満
艦飾のトラックに乗せて沼
津音頭のお披露目をし 近
村から修善寺伊豆半島と静
岡県東部一帯を巡らせた。
この三日間に集まった人波
はざっと二十万 商店街に
落ちた金は一億円にもなっ
た。祭りは造るものである。
人は集めるものである。思
いがけぬ盛大な夏祭りにな
って商店街もホクホクだっ
た。私も生まれてはじめて
のような大音声で 狩野川
河口で群衆にあいさつした
おそらく〃街道 "一の〃
いい男"になっていただろ
う、翌年の夏はちょうど沼
津御用邸にお出でになって
いた皇太子殿下をお祭りに
ご招待し、ご観覧の光栄に
浴した。この夏祭りは、 い
までは東海道の名物となり、
毎夏盛大に行なわれている
のである。 』
昭和 27 年 4 月 富士製作
所、製品海外輸出再開され
る
昭和 27 年 5 月 「耐火建築
促進法」公布施行
昭和 27 年 5 月 沼津市立
図書館、千本に開館
昭和 27 年 沼津サービス
店会設立(月賦システム)
昭和 27 年 本通り共同住
宅建設組合設立
6
昭和 27 年 沼津市商店街
連盟設立
昭和 27 年(1952 年)9 月
20 日 西武百貨店第一期
開店(池袋)
昭和 28 年 沼津チェンス
トアー設立(月賦販売シス
テム)
昭和 28 年 1 月 石橋製糸
沼津工場(昭和 8 年林組倒
産により引き継いた)は二
十八年一月 個人商店から
株式会社として認められた。
昭和 28 年 2 月 1 日 NH
K東京テレビ放送開始
昭和 28 年 3 月 沼津新駅
庁舎竣工
昭和 28 年 3 月 沼津駅デ
パート開業
『石橋治郎八著シルク紳士
まかり 通る よ り。 【私
が任期中に力を入れたのは
沼津駅の改築である。戦災
を受けた沼津駅は終戦後も
ずっとバラック建てのまま
であった。当時、駅の改築
は地元の寄付が相当ないと
許可にならない建て前だっ
た。
あるとき、塩谷沼津市長が
御殿揚で静養中の吉田首相
から耳よりな話を聞いてき
た。「これからの駅のあり方
は構造を立体的にし、会社
の事務所やいろいろな商店
を置くようにしなければな
らぬ」 という、 いわゆる
民衆駅の構想である。これ
に力を得て 私たちは工費
一億円で鉄筋四階建ての駅
を建築する計画を立てた。
しかし国鉄側と話し合って
みると、民間が使用する分
の建築費については民間の
全額寄付とする、さらにそ
れを借りるときはこちらが
権利金を出したうえ毎月賃
貸料を払う、そして契約期
間は八十年から百年という
条件でなければ応じないと
いう。すこぶるむずかしい
条件だ。これでは寄付金を
集めるわけにはいかない。
残念ながら沼津駅改築計画
は一時見送りとなった。
それで私は沼津駅の改築の
ことは半ば諦めていたのだ
が、そのことがあってから
六、七年たった頃、こんど
は国鉄側から話が持ち込ま
れてき。沼津駅改築の予算
が四千万円ほどとれたが、
地元から千五百万円の寄付
が必要である。そのた金が
見込がつかなければ、改築
はできないから予算も他に
まわすことになるだろう、
ということであった。千五
百万円の寄付を集めること
は容易ではない。しかしこ
の機を逸すると、沼津駅の
改築は当分お預けとなる。
あれやこれやと思いあぐね
た末、私は国鉄側に沼津駅
改築の図面をみせてもらう
ことにした。図面をみれば、
なにかいい考えが湧くかも
しれないと考えたのである。
詳細に図面を検討したとこ
ろ、改札口の上が百二、三
十坪空いているのを発見し
た。これだ!これを活用す
る以外に手はない。私は早
速この「空所を七、八十年
の賃貸契約で貸してくれる
なら千五百万円の寄付は引
き受けます」と国鉄に申し
入れた。しかし国鉄側では
七、八十年の賃貸契約では
むずかしい、こちらの条件
をのむなら応じようとの返
事で譲らない。結局国鉄側
の言いなりになるよりほか
なかった。すでに駅弁を入
れている桃中軒が二、三十
坪を二百五十万円で引き受
けることになっていたので、
会議所としてはあとの百坪
を借りる条件で千二百五十
万円の寄付を引き受けるこ
とになった。
これはいいささか独断専行
のきらいがあった。しかし、
ある場合は、この程度の蛮
勇をふるわなければ何事も
成就しがたいものである。
私は国鉄との契約は伏せた
まま、しばらく形勢をみる
7
ことにした。そのうちにい
よいよ国鉄側は改築に取り
かかり、新しい駅に対する
一般の関心が高まってきた。
ころはよし、私は会議所の
役員会を招集し、百坪の賃
貸と寄付問題をはかった。
「新駅ができるについて階
上の百坪を借りることがで
きる。 ただし、これには条
件がある。場所に甲乙はつ
けるにしても、平均坪十三
万円の権利金がいる。権利
金といっても、その内容は
寄付金だから権利証をもら
うわけではない。さらに毎
月賃貸料を払わねばならぬ。
また不良品を客に販売する
ようなことがあれば、解約
するといった条件もついて
いる。したがって百坪を細
かく分割して個人にやらせ
ると解約されるものが出な
いとはかぎらない。そこで
私が責任者になって"沼津
ステーション・デパート株
式会社"をつくり、設備の一
部を整え、あとは個人で経
営するといった形をとった
らどうだろうか。一応会社
が金を出して、そのうえで
みなさんにまた貸ししたと
いう形をとれば、個人に不
手際があっても解約される
ことはあるまい。こういう
条件で坪十三万円で借りる
人がいるだろうか。希望者
が少なければ、東京方面に
有力な借り手があるから、
そちらへ頼むことになる。
私は地元の発展のために、
沼津で全部引き受けてくれ
ればそれに越したことはな
いと思うのだが……」
「問口一問、奥行四尺ぐら
いのところが十三万円とは
高過ぎる。坪十三万円かけ
れば新しい店ができるじゃ
ないか」こんな反対論がガ
ヤガヤと出はじめた。
「商工会議所としては、一
応引き受けたから、みなさ
んにおはかりしたが、希望
者が少なければ東京の有力
者に貸すことになる。希望
者は二週間以内に申し出て
もらいたい」これ以上話し
合っても、ここではまとま
るまい、考える時間を与え
た方がいいと思ったので、
私はそう言って役員会を打
ち切った。二週間経って、
ふたを開けてみると、なん
と申し込みは二・七倍もあ
り、こんどは割当に困るほ
どだった。予想通り私の作
戦 が 奏 効 し た わ け で あ
る。 】』
昭和 28 年 7 月 八幡町に
沼津市公会堂竣工
昭和 28 年 7 月 市制施行
30 周年協賛行事実施沼津
市 30 周年記念沼津商店主
の宣伝自転車部隊
昭和 28 年 7 月 本通りで
仮装踊り・沼津夏祭り駅前
で商店会の沼津音頭踊り・
千本浜公園でミス沼津審査
会
昭和 28 年 7 月 松菱沼津
店進出 (昭和 31 年エレベ
ーター運転・ 昭和 46 年閉
店)
昭和 28 年 12 月 アーケー
ド西側が完成(東西総工費
1 億 6 千万円・総面積約
2300 坪)
昭和 29 年 3 月 7 日 沼津青
年会議所発足
昭和 29 年 4 月 17 日 藤倉
電線(株)
(明治 18 年藤倉善八東京
神田絹綿捲線会社創業:富
士根村王子製紙第二工場の
疎開から【東京人絹→沼津
海軍工廠→小糸車両工場】
跡に)沼津進出
昭和 29 年 7 月 沼津市警
察署から県沼津警察署に
(市警から県警に)
昭和 29 年 7 月 仲見世商
店会「七夕まつり」始まる
昭和 29 年 11 月 アーケー
ド東側完成し本通りアーケ
ード街全面完成アーケード
街
『アーケード街は西側が昭
和二十八年十二月に、東側
8
が同二十九年十一月に完成
したが、総工費は約一億六
千万円、 総延面積七、 五
九〇平方メートル(約二、
三〇〇坪)商店数五〇に及
ぶ大規模なものであった。
この商店街の二階以上が歩
道に突出しているのは、都
市計画による道路拡張のた
め各店舗を後退させる必要
があったのを、松菱百貨店
の建物の移動が困難なため、
便宜的に松菱の一階に歩道
を貫通させ、他の商店はこ
れに準じて一階だけ後退さ
せ、二階以上は店舗兼住宅
に利用させるという苦肉の
策がとられたものである。
これは全国でも類のない建
築方式で沼津の一名所とな
り、四季を通じて各地から
視察に来る特異建築となっ
た。またこの地区は沼津市
美観地区条令によって、こ
の商店街は美観地区に指定
されることになった。これ
により電気看板の大きさ、
螢光灯の位置なども一定さ
れ 、美観を害する造作物の
設置を禁じられている。要
するに商店街共同建築のモ
デルケースとなったのであ
る。 (沼津市誌)』「戦後復
興事業と防火建築帯事業合
併事業:沼津市史」
昭和 29 年 11 月 9 日防火帯
共同建築関係識者報告会:
セメント協会
主催社団法人セメント
協会•後援沼津市・昭和 29
年11月9日• 場所 沼津市
庁•御出者・ 建設省村井
建築防災課長•住宅金融公
庫関東支所松本貸付課長、
藤沢建設課長補佐•静岡県
庁久保田建築企画係長•沼
津市•松下建築課長、落合都
市計画課長、鈴木建築課長
補佐、内田住宅営繕係長、
鍵山建築指導係長、内海建
築課主事、袴田都市計画課
書記•沼津市美観審査委員
会望月委員長•沼津市本通
共同住宅建設組合•岡田理
事長、杉山(猪)副理事長、
海野副理事長、鈴木副理事
長、杉山(進)副理事長•建設
工学研究会小芦専務理事、
今泉常務理事、高田現場監
督•清水建設株式会社 後
藤静岡出張所長、坂現場主
任、成瀬現場主任、蜷川現
場主任•セメント協会徳永
専務理事
昭和 29 年 中ノ島水族館
(昭和 5 年開館)が三津水
族館に改称、高台に新館を
建設
昭和 29 年 9 月 12 日 沼津
牧水祭始まる
昭和 29 年 百貨店の特殊
指定
昭和 30 年 4 月 1 日 愛鷹・
大平・内浦・西浦4カ村沼
津と合併
4月 29 日 浮島村、原町と
合併
昭和 30 年 4 月 1 日 駿河銀
行、 旧本店跡地(通横町)
に戦後大手町仮本店社屋か
ら新築開店(鉄筋コンクリ
ート地下 1 階地上 4 階)
昭和 30 年 8 月 沼津本通
りアーケード竣工
昭和 30 年 伊豆国立公園指
定される。
昭和 30 年(1955 年)堤清
二が西武百貨店取締役店長
に就任
昭和 30 年 稲村椎茸問屋上
本通りへ進出
昭和 31 年 3 月 第 4 代会
頭田中清一就任
昭和 31 年 第二次百貨店
法成定
昭和 31 年 3 月 15 日 沼津
宝塚劇場開館
『"沼津寶塚劇場"完工(東宝
系)いよいよ 3 月 15 日開館
上本通り東海劇場前に昨年
1 月から清水市鈴与建設が
うけおつて着工始めた総面
積二百二十五坪鉄筋コンク
リート三階建の工事は、最
後の追い込みに日夜懸命の
作業を続けているが、いよ
いよ十五日春の陽ざしに柔
かく映えるクリーム色の劇
9
場、 沼津宝塚劇場と命名
(社長猪俣勝人氏、支配人松
本一己氏)し開舘する。東宝
系、冷暖房装置、客席六百、
収容人員千名、シネスコ・
スクリーン常備、ほう画ワ
イドスクリーン使用、富士
セントラル最新式影写機、
発声器ビクター二階喫茶室
にテレビ、公衆電話を備え
客のサービスに当り、化粧
室は全部水洗便所で県東部
一をほこる劇場となるわけ。
開館披露第一週目は十五日
から二十日まで鶴田 三船
出演の「暗黒街」、香川、木
村出演の「奥様は大学生」
を上映する。(黎明新聞昭
和 31 年 3 月 15 日号)』
この時点での沼津の映画館
は沼津文化劇場、沼津第一
劇場、沼津映画劇場、沼津
宝塚劇場、沼津銀星座、沼
津東海劇場、沼津セントラ
ル劇場7館。
昭和 31 年 上本通り商店街
(沼津文化劇場前歩道)を
行く若い女性。
昭和 31 年 御殿場線、蒸気
機関車からジーゼルに(昭
和 42 年から電車が走る)
昭和 31 年 小田急ディー
ゼルカー御殿場乗り入れに
対し沼津駅まで延長を国
鉄 ・ 小田急に陳情(第1
次小田急沼津乗り入れ運動)
昭和 31 年 5 月 第 2 次百
貨店法公布
昭和 31 年 東海道線全線電
化完成(昭和 9 年丹那トン
ネル開業、東京駅―沼津駅
間電化完成)
昭和 31 年 6 月 1 日 松菱デ
パート:エレベーター設置
運転。
昭和 31 年 6 月 5 日 銀星座
映画館新装開館(松竹・東
映)
昭和 31 年 7 月 2 日 沼津法
人会創立総会(沼津商工会
議所ホールにて)
昭和 31 年 7 月 喫茶店プ
リンス新築開店
『新装開店新築改名御挨拶
新名プリンス 旧名沼津名
産喫茶部皆様に愛された喫
茶「めいさん」を今度「プ
リンス」と呼んで下さい。
プリンスは新築の落着いた
雰囲気で心から皆様をお待
ちしております。喫茶プリ
ンス「沼津駅前 TEL 四七九
六六八」(沼朝昭和31年7
月26日号広告)』
昭和31年8月23日 『日限
地藏尊 蓮光寺へ建立 三
枚橋と三芳町の町内会では、
予算六十万円で蓮光寺境内
へ日限地藏尊を建立すること
になった。
二十万円は鈴木製材が寄
付、 十万円は両町内のお
婆さんが托鉢で集め、 残り
三十万円を両町内で十五万
円ずつ献出し、 八月二十三
日の祭典までに完成する(沼
朝昭和31年5月26日号)』
昭和 31 年8月 西武沼津
店進出問題(この時点、既
に駿鉄ビル建設は着工され
ていた)
商店街連盟(会長大橋規一
氏)では二十七 日午後二時
から商工会議所で役員会を
ひらき、対策について協議、
意見書をとりまとめて九月
五日までに通産省企業局商
務課へ提出。
『駅前に西武百貨店 廿七
日商連が対策協議
駅前、駿鉄の角へ西武百貨
店沼津支店が建設される。
地下一階、地上六階、三三
七〇・六九一平方米の近代
百貨店で、駅前の一偉観と
なるが東京資本によるこの
デパート進出に対して、商
店街連盟では、二十七日午
後二時から役員会をひらき、
対策を講ずると共に、意見
書を通産省企業局商務課に
堤出する。
地上六階のビル 来年二月
から開業
西武百貨店(東京都豊島区
池袋二丁 目一一八八)では
大手町五番地駿鉄角へ、沼
津支店の新設を計画し〃
10
西武鉄道、駿豆鉄道ビル〃
として清水組によって工事
が進められているがこれは
鉄筋コンクリーと六階建三、
五七〇・六九一平方米(地下
一階四二四・一〇四平方米
地上六階三、 一四六・七平
方米)の近代百貨店で、松坂
屋静岡支店よりは小さいが、
松菱沼津支店の二倍ほどの
大きさ。塔屋には、さらに
もう一階延べ七階のビルで、
衣料、家庭用品、雑貨、 食
料品、 加工修理、 卸売な
どの売場のほか、 美容室
(三三平方米)食堂(四〇二平
方米)が計画され営業開始
は三十二年二月末日からと
予定されている。
商店街に脅威? 五日までに
意見書
松菱につづいて、それより
も更に大きいこの西武百貨
店の進出に対して、商店街
では生命線を脅かされるも
のとして強硬に反対する向
と 却って商店街の繁栄に
なるものと、意見はさまざ
ま商店街連盟(会長大橋規
一氏)では廿七日午後二時
から商工会議所で役員会を
ひらき対策について協議
意見書をとりまとめて九月
五日までに通産省企業局商
務課へ提出することになっ
た。《沼朝昭和 31 年 8 月 24
日 (金)号》』
『 西武百貨に街の聲廿九
日に諮問委員会
本紙既報のとおり、西武百
貨店では(駅前駿鉄角に地
下一階地上六階、三三五七
〇・六九一平方米)沼津支店
の建築に着手、来年二月末
開業の準備を進めているが、
市民間では市の繁栄策とし
て歓迎する者と、商店街は
生命線か脅かされると反対
する者と、二つの意見か対
立している。これに対し商
工会議所では 二十九日午
後一時から卸売業者、小売
業者、百貨店、消費者各代
表、学識経験者、公共団体
職員、商議所役員など二十
数名で構成する諮問委員会
(商業活動調整協議会)を
ひらき、九月五目までに通
産省企業局商業課に意見書
を提出する。
生命線を脅かす"
西武デパート沼津進出に対
して、今日午後三時から大
手共栄会、仲見世商店街、
上土振興会、上本通共栄会、
アーケード街大成会、南部
商店街、沼津専門店会、沼
津サービス店会、沼津チエ
ーンストア会の代表者は商
工会議所に集って協議した
が、商店街連盟としては生
命線を脅すものとして反対
を表明、諮問委員会にこれ
を具申すると共に、通産省
企業局商業課に陳惰を行う
ことになった。
各代表者の意見ー
田村靖雄氏(アーケー ド街
大成会)
沼津の人口は周辺を入れて
十五万人だ。静岡や浜松の
ように周辺人口を加えて三
十万もある都市なら影響は
少いだろうが、沼津では共
倒れになる公算大だ。将来
はどうか知らないが、現状
では反対だ。
柴田正氏(上土振興会)
駅前に大資本のデパートが
出来るということは、商店
街にとつて非常な脅威だ。
たださえ立地条件のわるい
上土の商店街は大打撃にな
る。多数の地元商店の死活
問題として遠慮してもらい
たいというのが、大部分の
意見だ。
加藤俊輔氏(上本通共栄会)
市の発展のためには結構だ
という人があるかも知れな
い、また商店としても、立
場によっては喜ぶ人がある
かも知れない。それぞれ利
害の立場に於いて違うと思
うが、商店街としては脅威
だ。反対せざるを得ないと
思う。
杉山猪作氏(沼津サービス
11
店会)
大反対だ。駅前に六階層も
の大デパートが出来たら、
大手も、上土も、本通りも、
木町の商店街も客がここで、
食いとめられしてしまい。
苦しいやりくりを続けてい
る商店街にとつては大打撃
だ。
消費人口は増える だが商
店街は大打撃
大川角太郎氏(仲見世商店
街)
狭い見地から賛否をきめる
のはいけないと思う。早計
にきめず、静岡や浜松の事
例をよく調整したい。
大竹新太郎氏(南部商店街)
みんなの意見はまだまとま
っていない。しかし個人の
考えとしては、困るには困
るが、防げないではないか
と思う。大デパートが来る
ことによって、市は繁栄し、
また消資人口もふえると思
うが、これがはたして商店
街にいい結果になるかどう
か、デパートはよくとも、
われわれは駄目になるので
はないかと心配だ。
山本義重氏(沼津専門店会)
専門店会ではチケツトを利
用して、長期分割収入を行
っているが、東京あたりの
デパートでも、これと同じ
方法で月賦販売をはじめて
いる。大資本のデパートで、
同じことをされたらとても
かなわない。
渡辺盛作氏(沼津チエーン
ストア)
反対もあり、贅成もある人
の利害によっていろいろ違
うが、大勢は反対の線だ。
《沼朝昭和 31 年 8 月 28 日
(火)》』
『沼朝新聞昭和 31 年 8 月
30 日号記事:賛否両意見を
提出 "西武百貨の公聴会“
駅前に建築工事をはじめて
いる西武百貨店沼津支店の
新設に対して、利害閣係あ
る事業者及び団体、学識経
験者などを以て構成する沼
津市商業活動調整協議会は
きのう午後一時から商工会
議所会議室で公聴会をひら
いたが、東京資本のデパー
トの進出は商店街を脅かす
として反対するものと時期
尚早を論ずるものと、これ
とは別の見地から、大局的
に市の繁栄になるとして賛
成するもの場から活発な意
見が開陳された。
同協議会では、九月五日ま
でに通産省企業局商務諜に
意見書を提出することにな
っているが、結論に至らな
いでの、公聴会そのまま発
言をまとめて提出すること
になった。
市の発展になるだが商店街
は反対
西武百貨店の新設について
意見か求めるため商業活動
調整協議会では、各階層か
ら次の二十三氏を委嘱、き
のう午後一時から公聴会を
ひらいた。
◇商業活動調整協議会委員
百貨店代表西川伝九郎(松
菱沼津支店長)卸売業者代
表岡田吾市(酒類卸商)同増
田慶三(魚類卸商)同大橋
規一(沼津青果市場専務取
締役)小売代表吉邨勇(大手
町大栄会々長)同柴田正(上
土振興会会長)田村靖雄(ア
ーケード大成会会長)同加
藤俊輔(上本通り共栄会会
長)消費者代表大野虎雄(市
社会福祉協議会副会長)井
関幸子(市連合婦人会会長)
稲玉むめ(市赤十字奉仕団
長)竹内鉄次郎(県士木建協
会東部支部長)学識経験者
西脇仁(商業高校校長)中江
斎(工業高校々長)加藤ふじ
(女子商業高校々長)地方
公共団体職員内藤政次(沼
津電話局長)土持留男(市商
工観光課長)杉山善四郎(市
農林水産課長)(沼朝昭和 31
年 8 月 30 日号)』
『西武反対不可能か 百貨
店審査会五月まで見送り
駅前に建設中の西武デパー
12
ト開店をめぐって地元小売
商の反対と消費者の賛成意
見が衝突、営業許司の実際
的発言権を持つ百貨店審査
会が十六日開かれ、最終的
決定がでるものと注目され
ていたが、中村東京通産局
長は、地元商店街連盟と西
武側とが折り合わず、正面
衝突の状態でいるため遂に
審査会を延期、建物が竣工
する五月まで双方の歩みよ
りを期待する態度をみせて
いる。
沼津商店街連盟杉山会長は
じめ幹部八名は森商議事務
長と同行、十六日東京通産
局を訪れ、中村局長と会見、
反対陳情を行い、種々懇談
したが、百貨店審査会開催
を通産大臣に答申する権限
を持つ局長は、「建築も現在
進行中のことではあるし、
絶対的に反対は扱いに困る
し、影響についでは今後に
待たなければ好結果か悪結
果は判断はできず、むしろ
地元側としては夜間営業、
貸売、外売或いは売場など
の制限や、商品の地元製造
品や卸品の買い上げなど協
定を結んで相携えていった
ら却って好影響も期待され
ないか、無論デパート側の
地元との不協力的なやり方
については注意する」との
希望意見を述べている。
これについて近く局長斡旋
でデパート側と地元商連と
の会見が行われるものとみ
られる。
(沼朝昭和 32 年 1 月 18 日
号)
西武百貨店に制限 商連が
きょう申入れ
百貨店審議会を無期延期ざ
せた沼津商店街連盟の西武
デパート開店反対運動は、
去る十六日通産局に陳情の
折、中村通産局長から「絶
対反対でなく、何んらかの
話し合いで、歩みよっても
らいたい」との意向が伝え
ちれたが、きよう二十五日
午前十一時から東京通産局
で杉山商連会長ら五名と西
武デパート代表五名が初会
見を行い、意見の交換を行
うことになった。
西武側としては地上五階地
下一階を全部デパートとし
て使用したい気持らしいが、
地元商連側としは売り場階
数や外売りなどの制限を粗
当強く申入れるもようであ
る。
(沼朝昭和 32 年 1 月 25 日
号)
西武商戦異状あり 商連と
話合い.物分れ
沼津駅前に進出、 着々 と
工事を進めている西武デパ
ー(駿豆ビル)の全階営業(地
下一階、 地上六階)に反対
する地元沼津市商店街連盟
(会長杉山猪作氏)は二十五
日東京通産局長の斡旋によ
り同局で西武側代表と初会
見をしたが 「全階は認め
ぬ」 という地元側と “通
産局の妥協案に応じられぬ”
の西武と双方の主張意見は
真向うから対立して物別れ
となり 五月上旬竣工する
同ビルをめぐり開店の裁断
は通産局の腹一つとなった
が 両者が譲らないところ
から今後の成り行きが注目
されている。
仲裁案は二割削減 双方と
もに譲らず
両代表の会議は二十五日午
前十一時から通産局で、地
元沼津商店街連盟から杉山
会長、吉邨 田村副会長、
土屋理事と森商議所事務局
長、西武側からは堤清二社
長(平成 25 年 11 月 25 日
死亡)、伊藤総務課長以下代
表五名が出席し、中村通産
局長と地元の世論を調査に
きた江下商工課長が立ち会
って行われた。
この会見で西武側は全階営
業面積千八十坪の一割百八
十坪使用削減で地元の同意
を受け付けず中村局長は二
割の二百六坪を削ったらど
13
うかと提案したが“これ以
上の譲歩は絶対に出来ない”
と断った。
これに対し地元沼津商店街
側は百貨店法にふれぬ範糊
内で営業(二階で営業場所
四百五十坪)するならばよ
いがそれ以上では許せない
と云い張り、双方の主張は
大きな開きをみせ、物別れ
となってしまった。
この意見の対立をよそに工
事は一億二千万円の工費で
着々進められ、すでに五階
までを完了 、残る一階と内
外の装飾をするだけとなっ
ているだけに、早期結論が
望まれている。しかし今後
の考慮を約して別れたもの
の両者の歩み寄りは不可能
な状態なので、通産省の判
断で決定される状勢となっ
た。(沼朝昭和 32 年 1 月 27
日号)』
『周辺業者も困る"西武"に
重ねて反対
駅煎に建設中の西武デパー
ト開店をめぐって、地元商
店街連盟は百貨店法にふれ
ない売り場面積(地下と二
階まで四百五十坪)を条件
に出したのに対し、西武側
は売場総面積干八十坪の一
割減を主張 通産局の二割
減の提案もお流れになって
通産省の断を待つことにな
ったが、沼津商連とは別個
に沼津市周辺の小売業者
(駿東郡、富士郡)も再度反
対陳情を行うことになり、
二月一日、森沼津商議事務
局長の案内で駿東郡商工会
連合会長中野英太郎氏はじ
め長泉、裾野、原各商工会、
富士商議などの代表十名が
上京通産局に反対陳情を行
い、石橋総理大臣、永田通
産大臣、徳永企業局長、中
村通産局長、工藤百貨店審
議会長に、大旨次のような
陳情書を提出する。
「西武沼津店の開店で、富
士川以東の小売業者の打撃
は大きい。殊に沼津駅を起
点とする御殿場線沿線中小
山町までの各地と西隣原町
以西富士郡下の零細小売業
者は手痛い影響を受け 倒
産者も多いと案じている。
昨年十一月八日反対陳情を
行つたが、遠からず竣工の
運びなので再度陳情する。
不許可か、売場面積の削減
を希望する。」
なお沼津商連では三十日午
後一時から商工会議所で役
員会を開き、西武側との交
渉経過報告を行い、今後の
対策を協議した。(沼朝昭
和 32 年 1 月 31 日号)』
昭和 31 年 11 月 2 日 丸共
総合食品デパート(スーパ
ー)開店。
昭和 31 年 11 月 16 日 十字
屋沼津店大手町(南仲見世)
進出。(昭和 38 年仲見世有
明軒ビルへ移転)
昭和 31 年 12 月 復明館医
院仲見世から現在の大手町
へ移転新築開院(沼朝昭和
31 年 12 月 13 日広告)
昭和 31 年 12 月 石橋湛山、
内閣総理大臣に就任
昭和 32 年の映画館沼津市
(7)沼津文化劇場、沼津
第一劇場、沼津映画劇場、
沼津宝塚劇場、沼津銀星座、
沼津東海劇場、沼津セント
ラル劇場
昭和 32 年 1 月 沼津軒駅
前広場東側移転新築開店
(沼朝昭和 32 年 1 月 29 日
号)
昭和 32 年 3 月 西武百貨
店沼津進出反対決議書(沼
津市商店街連盟:会長杉山
猪作)
昭和 32 年 6 月 1 日 駿豆鉄
道株式会社から伊豆箱根鉄
道株式会社社名変更
昭和 32 年 6 月 8 日 西武
デパート沼津店本館開店
(伊豆箱根鉄道所有土地建
物:建築施工清水組)(地下
1 階地上 6 階約 950 坪、建
設費 2 億 5 千万円、従業員
230 人)
《平成12年7月 (2000年)
14
株式会社西洋環境開発株式
会社負債5538億円で清算し、
「セゾングループ」 が実質的
に崩壊する。》
《平成25年(2013年)1月31
日西武沼津店閉店・55年の
歴史に幕が降りる》
『西武沼津店55年歴史
に幕
3万人来店、別れ惜しむ
JR沼津駅南口の西武沼津
店(沼津市大手町)が31日、
閉店した。1997年の浜松店、
2006年の静岡店に続く閉店
で、県内から「SEIBU」の看板
が消えた。商都・沼津のシン
ボルとして君臨した県東部唯
一のデパートは55年の歴史
に幕を下ろし、多くの市民が
別れを惜しんだ。
JR 沼津駅南口の西武沼津
店(沼津市大手町)が 31 日、
閉店した。1997 年の浜松店、
2006 年の静岡店に続く閉
店で、県内から「SEIBU」
の看板が消えた。 商都・沼
津のシンボルとして君臨し
た県東部唯一のデパートは
55 年の歴史に幕を下ろし、
多くの市民が別れを惜しん
だ。
午後 7 時半に営業を終える
と、名残惜しむ買い物客を
従業員が深々と頭を下げて
見送った。店舗前で行った
式典で、山本辰美店長は「長
らくご愛顧いただいた当店
は本日、営業終了します。
多くのお客さまに深く感謝
します」と述べた。山本店
長には地元の沼津大手町商
店街振興組合(松田和孝理
事長)から花束が贈られた。
沼津店は旧西武百貨店が
1957 年、 地方第 1 号店と
して開業した。「沼津で東
京のお買いもの」が当時の
キャッチフレーズだった。
ピークの 92 年 2 月期は約
206 億円を売り上げた。 し
かし、郊外型商業施設の台
頭などで 2012 年 2 月期は
74 億円まで縮小。10 年 2
月期から 3 期続けて赤字を
計上していた。
《静新平成 25 年 2 月 1 日
(金)朝刊》』
昭和 32 年 10 月 26 日~30
日 第 12 回国民体育大会
(上本通り商店会歓迎アー
チ)
昭和 32 年 10 月 沼津駅北
口開設(開設工事 3 年半か
かる)
『石橋治郎八著シルク紳士
まかり通るより : 以前、
沼津駅は南口だけで北口に
駅がなかったため、駅北へ
行く人は南口で降りてから
ガードをくぐらねばならな
かった。ところが、このガ
ードはお粗末で雨が降ると
水びたしで通れない。年々
駅北の商店街も発展してく
るし、北口に駅をつくろう
という声は十年ほど前から
聞かれていた。だが線路が
十三本もある沼津駅に跨線
橋をかけると 国鉄の古材
を使っても一千万円はかか
り それを含めて工事費は
全額地元負担でなければ着
工できないと、国鉄では言
っていた。これが北口に駅
を実現する上の最大の障害
となっていたのである。
しかし、なんとか実現しよ
うという地元の強い盛り上
がりをバックにして、沼津
駅北開発促進同盟会が発足
し、私が会長になって運動
にとりかかった。 が 地元
で集められる金はせいぜい
一千万円どまりとあって
容易に実現しそうになかっ
た。
私は高木沼津市長と何回も
国鉄静岡鉄道管理局へ足を
運んで陳情したが、うまく
いかない。そこで地元選出
の遠藤代議士に一肌脱いで
もらい、中央で建設省の建
設局長に便宜をはからうよ
う頼んでもらったところ
「なにか特別の理由があり
ますか」と聞かれた。
「雨が降るとガードに水が
たまって、子供達が北部の
15
学校へ通えなくなります。
学校を休むわけにいかない
ので、学生達は危険な線路
の上を歩いて通っているの
が現状です。どうしても北
口に駅をつくらなければな
りません」学生を持ち出し
たのは、われながら上出来
だった。それならなんとか
しようというわけで、建設
省から国鉄に話が持ち込ま
れた。
すると、すぐ静岡鉄道管理
局長が本庁に呼ばれ、沼津
北口駅工事の計画案をつく
るよう命ぜられた。そのあ
とで管理局長に私が会うと
「石橋さん、東京でどんな
ことを言ったのですか。
うまくやりましたな」とほ
めてくれた。
国鉄が見込んだ工費は二千
万円あまりだった。うち地
元負担は、七、八百万円で、
あとは鉄道利用公債でまか
なうことになった。いよい
よ話がまとまったので、私
達は遠藤さんといっしょに
国鉄総裁室へ行った。ちょ
うど総裁が外遊中だったの
で副総裁と会った。結局、
副総裁は鉄道利用公債を使
うことに応じたが条件付き
だった。
「いま国鉄運賃の値上げ問
題が起きていますが、遠藤
さんがこれに骨折ってくれ
るなら、鉄道利用公債の件
を考慮しましょう。反対さ
れるようなことはないでし
ょうね」遠藤さんはちょっ
と渋い顔をしたが「もちろ
んだ」 と答えた。 こうし
た政治的掛け引きに異論を
はさむ向きもあろうが、と
もかくこうして沼津北口に
駅が五年前に実現したので
あった。これにはほかの人
の力もあったが、なんとい
っても遠藤さんの力に負う
ところが大きかったのであ
る。』
昭和 32 年 11 月 中小企業
団体の組織に関する法律公
布
昭和 32 年 11 月 18 日 浅
間町商店街ビル完成(平成
21 年閉鎖:静鉄マンション
建設)
『浅間町商店街は多層家屋
建築と称し、総延坪数一、
六八三平方メール(約五一
〇坪)、総工費三、一五五万
円で 昭和三十二年十一月
十八日に完成した。店舗の
数は六戸で二階は住宅とな
し三階と四階は十二戸の貸
住宅となっている。(沼津市
誌)』
『沼津朝日新聞昭和31年1
月 8 日号記事: 防火共同建
築第二陣 大手町 浅間町三
月早々に着工 アーケード
に続く防火帯の第二陣とし
て、浅間町および駅南小島
屋百貨店が四階建の防火建
築に三月早々着工する。
浅間町は神社東側八軒延建
坪五百八坪、一・二階が店
舗併用住宅、三・四階が分
譲住宅十六戸。小島屋百貨
店は延建坪四百十五坪、二
階以上が分譲住宅二十二戸
となる。工費は浅間町二千
九百万円、小島屋二千六百
万円で住宅公庫融資がそれ
ぞれ千九百六十万円 一千
八百六十万円。なおこの分
譲住宅は五十年賦で分譲さ
れる。 (沼朝昭和 31 年 1
月 8 日号)』
『 四 階 建 の 不 燃 建 築
浅間町六月ごろ完成か
全国に先きがけてアーケー
ド街が本通りにお目見得し
たが、不燃材料による横の
デパートが六月ごろまでに
浅間町に完成され観光沼津
の名物となる。浅間町北側
の九軒が三干百五十万円で
四階建の不燃鉄筋建築を行
い、一、 二階を商店と横の
デパー トにして三、四階を
住宅にするもの工事は現在
行われている下水工事が完
了と同時に始められるもの
で三月ごろとみられ、竣工
予定は五月二十日となって
16
おり、防火地帯としての認
定が、このほど許可された
ところから着手されたもの。
なお工費は公社借入八百七
十一万円、公庫千九百万円、
自己負担が六百四十五万円
でまかなう。またこれは駅
前十宇路の四百坪に二千八
百八十三万円の工費で、基
礎工事中の地下一階、地上
四階の小島屋と同様に、横
のデパートとして各地商店
街からも注目されている。
(沼朝昭和 32 年 1 月 25 日
号)』
昭和 32 年 商店街公共用
歩廊施設の建設助成を県知
事に陳情
昭和 33 年 3 月 10 日 赤線
廃止前夜記事
『昭和 33 年 3 月 10 日沼朝
記事より:昭和 33 年 4 月 1
日より売春禁止法に先んじ
て、 沼津の特飲街は 3 月
10 日から転廃業。西条、八
幡町、市場町、錦町、西宮
後、上本通り、出口(青線、
白線)緑新地(赤線)。緑新
地=5 軒 10 人、添地=18
軒 46 人、八幡町=5 軒 10
人、その他 5 軒 8 人。計特
殊飲食 33 軒、女 74 人。昭
和 32 年 12 月末では 39 軒
女 127 人であった。』
昭和 33 年 4 月 1 日 売春防
止法(1956 年5月制定)の
完全施行
昭和 33 年 4 月 沼津仲見
世商店会(大橋光雄会長就
任)
昭和 33 年 7 月 8 日
朝日新聞
「東海道新線」着工いそげ
記事より
[コース] 国鉄は昭和十
五年当時の案で東京ー大阪
間では平塚ー小田原、熱海
ー三嶋、 清水ー焼津、二川
ー蒲郡、大高ー枇杷島、大
阪駅付近の用地を二・九万
アール(八十七万坪)をすで
に買収している。これは全
線に要する用地の約二割に
当る。資金の関係で、どう
しても買収した用地を通過
する線が予想される。つま
り東京から国府津までは直
線コースをとるため、横浜、
藤沢、平塚など大カーブの
ところは通らない。国府津
から小田原、熱海は現在線
と平行に走り、掘り残され
た新丹那トンネル(現在は
七八〇三㍍、新しいのは山
側で七九一〇㍍)を通り、沼
津をよけて駿河湾ぞいに静
岡の中心部から焼津、掛川
付近を経て、浜松から浜名
湖の新鉄橋を渡る。そこか
ら再び直線コースで現在の
名古屋駅に入る。名古屋ー
京都間は鈴鹿山脈の下を直
線に抜けて大阪へ。これは
決定案ではないが、全線約
五百㌔、いまより五十㌔短
かくなっている。
昭和 33 年 5 月 消防庁(八
幡町)完成
昭和 33 年 8 月 21 日 沼津
駅前「愛の母子像」除幕式
(像作和田金剛・詩文井上
靖:沼津赤十字奉仕団設団
十周年記念)
『すべての人の幸せ 沼津
赤十字奉仕団 十周年に記
念式
すべての人々のしあわせを
ねがい、蔭の力となって人
人に奉仕しましようーと、
沼津市赤十字奉仕団が設団
されてことしは十周年、同
団では二万団員のうちから
代表者二千五百名が集って、
きのう二十一日朝十時二十
分から駅前広場で〃 愛の
母子像〃 の除幕式を行い、
引きつづき午後一時から市
公会堂で記念式典を挙げ、
赤十字の旗のもと、さらに
「身近な奉仕をひろげ、す
べての人人と手をつなぎ、
世界の平和につくしましよ
う」と誓いを新たにした。
千羽の鳩舞い上る母子像と
詩碑の除幕沼津日赤奉仕団
では、きのう設団十周年記
念式典に先立ち、朝十時二
十分から駅前広場に団員一
17
一千五百名が集まって〃
愛の母子像〃 の除幕式を
行った。:(沼朝昭和 33 年 8
月 22 日記事)』
昭和 33 年 9 月 26 日 狩野
川台風災害 沼津―三島間
電車停止
昭和 33 年 11 月 1 日 東海
道本線ビジネス特急「こだ
ま号」登場
昭和 33 年 12 月 19 日 新幹
線の建設計画が承認される
昭和 34 年 仲見世商店街
組合設立
昭和 34 年 4 月 20 日 東海
道新幹線起工式:十河総裁
(新丹那トンネル熱海口)
昭和 34 年 9 月 17 日 沼津
ライオンズクラブ設立(会
長塩谷六太郎・幹事宇野紳
七郎)認証式産業会館でお
こなわれた。
昭和 34 年 11 月 第 5 代会
頭 岡田吾一就任
昭和 35 年 2 月 8 日 「東海
道広軌新幹線」コース内示
説明会
東海道線は昭和三一年(一
九五六)に全線電化を完了
したが、増加する輸送需要
にこたえるには抜本的な対
策が必要とされた。そこで
昭和三三年一二月 、新幹線
の増設が決まった。国鉄は
昭和三三年度から調査・測
量をはじめ、翌年度から着
工した(『東海道広軌新幹線』
日本国有鉄道)。 新幹線の
ルートや駅の設置場所など
の情報は厳重に秘匿され、
変更は至難といわれた。
市域のルートが地元に示さ
れたのは、昭和三五年二月
八日十時、静岡市の町村会
館で開かれたコース内示会
が最初であった。内示会に
は勝又沼津市助役が出席し
説明をうけた。沼津市では
戦時中に計画された弾丸列
車のルー トを前提に都市
計画を進めていたが、内示
会で示されたルートはずっ
と北寄りの愛鷹山麓であっ
た。この地域は、北に向か
って発展中の沼津市にとっ
ては、将来に残された希少
な開発可能地であった。助
役は、地元の意向と して、
弾丸列車のルートを希望す
ると伝えたが、地盤の関係
で難しいというのが国鉄側
の説明であった(「沼津朝日」
昭和 35 年 2 月10日)。
これより先の昭和三四年七
月、沼津商工会議所常議員
会は、新幹線沼津駅設置運
動を起こすことを決めた計
画は極秘だが、県内の駅は
三駅程度、うち静岡と浜松
は決まり、東部地区は未定
と噂されていたためである。
この運動は立ち消えとなっ
たらしく、新たな動きはコ
ース内示後となった。
(静新昭和 35 年 2 月 9 日
朝刊)
国鉄新幹線坂本静岡工事局
長は「・・総裁の決裁、運
輸大臣の認司を経てコース
が決定ずるが、ボーリング
その他で支障ない限りこの
コースが選定されよう・・・」
【神奈川県から】ー鍛冶屋
ー城堀ー伊豆山ー桃山ー湧
水所ー(新丹那トンネル)
―大竹―壱丁田南側―石田
北側―西熊堂―椎路北側―
鳥谷―青野―井出―境(こ
こまでは根方街道北側を通
る)―大坪―日産自動車南
側―津田―東芝富士工場西
南端で現東海道線と交差南
側へー森島―(富士川を渡
る)
昭和 35 年 3 月 三枚橋に
沼津市立病院落成(昭和 63
年 7 月東椎路に移転新築)
昭和 35 年 3 月 裁判所・検
察庁・法務局完成
昭和 35 年 新幹線起工式
昭和 35 年 5 月 三信沼津
支店聖マリア跡新築移転
(昭和 24 年大手町に沼津
支店進出)
昭和 35 年 6 月 理研光学
(株) 沼津工場完成 (昭
和 11 年 2 月市村清 「理研
感光紙株式会社」設立東京
18
大田区)
昭和 35 年 7 月 上土セン
ター街共同ビル完成
『上土商店街は当初東西両
側の全商店が、四階建中高
層耐火建築を造り、二階の
全面を歩道となし、ここに
も商店街を設ける特異な建
築をなす計画であったが、
全部の足並みが揃わず、中
途で脱落者が出てきた。そ
の結果三階建てと四階建て
のまちまちな店舗ができて
一貫した建築とはならなか
ったが 昭和三十五年七月
までに二十七戸の店舗が完
成し、いわゆるセンター街
として営業を開始した。こ
の総工費は約一億八千万円、
総面積七一五〇平方メート
ル (二一六七坪) で、 こ
の中には最後に建築された
マキバ百貨店は含まれてい
ない。 (沼津市誌)』
『沼津朝日新聞昭和 31 年
11 月 7 日号記事: 四階の
アーケード 上土振興会が
建設
上土商店街と通横町の一部
をふくむ商店街を以って組
織している上土振興会では、
仮設日除けの撤去を契機と
して 四十三店舗(五十一
軒)が総工費三億円の予算
で 、
鉄筋コンクリート四階建の
準不燃大アーケードを建設
することになった。来年三
月着工、来年末までに完成
する計画を進めている完成
の暁は上本通りアーケード
街と相まって沼津の偉観と
なるものと見られている。
名実ともに"名店街”間仕切
りなし 横のデパートに上
土振興会(通横町の一部を
含む四十三店舗、五十一軒)
では、仮設日除けの撤去を
契機として、鉄筋コンクリ
ート四階建の横のデパート
とも言うべく大アーケード
を建設することになった。
室賀薬局と太洋相互銀行か
ら、大坂屋本店と長倉ガラ
ス約二〇〇米の予定で、
一・二階は商業目的、三、
四階はアバート貸室とし、
屋上はテニスコートなども
備える遊園地を計画してい
る。店舗は一軒あたり間口
三間、奥行十間ぐらいとす
るが、各店舗の間切りをと
り払って、横のデパート式
にしたいと言っており、ヒ
サシはプラスチックとし、
エレベーターやエスカレー
ターも設備する計画だと言
う。このアーケード建設の
目的とするところは、大資
本に立向うためには、各店
舗が個々の利益を誘えるこ
となく一町内がカを結集し
て、相互の繁栄をはからな
ければならないとするもで
名称も「沼津名店街」とし
て名実ともに名店街たらし
めようとしている総工費予
算は三億円で、このうち約
八割五分は県住宅公社と住
宅金融公瞳から借り受け後
の頭金一割五分はすでに各
店平均十万円ほどの積立貯
金をしており準備が進めら
れている。上土振興会の内
田祥司氏の話によれば来年
一月中に設計をすませ、三
月ごろから着工、来年未ま
でに四プロツクに分けて建
設、完成する計画だ。 (沼
朝昭和31年11月7日号)』
『上土アーケード 今週中
に具体化 町方町から通横
町を結んで一大商業センダ
ーを築きあげようとする上
土アーケード建設の構想は、
一時ストップ状態になって
いだが、新年に入って急速
に話が進展、今週中には具
体的に決るもようである。
同アーケードは全国初めて
の両側五十一軒を結ぶ四階
建鉄筋コンクリート建築で
二階にも歩道を設け階上商
店街も建設しようとするも
ので、更に東西商店街を結
ぶ地下道を二ヵ所作り、こ
こにも地下商店街を設ける
構想である。これに要する
19
工費は三億二千万円から四
千万円が見積られ 住宅公
庫の融資は愛けるが、全階
自己権利となり、自己資金
も二年前から日掛けを行い
資金面でも明るい見通しと
なっている。 (沼朝昭和
32 年 1 月 25 日号)』
昭和 36 年 1 月 郡是製糸
沼津蚕種製作所閉鎖(跡地
5 年後下河原団地となる)
昭和 36 年 4 月 (株)明電
舎沼津事業所竣工(明治 30
年三吉工場より重宗芳水独
立創立)
昭和 36 年 4 月 29 日 ほて
いや(ユニー)沼津店開店
昭和 36 年 10 月 1 日 2 日
日枝神社・浅間神社・八幡
神社(市場町)沼津秋合同
祭典(人出 15 万人)
昭和 36 年 11 月 沼津電報
電話局舎新築・自動式とな
る
昭和 36 年 12 月 第1次仲
見世アーケード完成、開通
式
昭和 37 年 4 月 商店一斉
休日に制定 (毎月第二・第
三・第四水曜日)
昭和 37 年 4 月 1 日 中央
ガード改装開通(中央ガー
ドはもと川であった、大正
12年関東大地震時には通
じていた)
『石橋治郎八著シルク紳士
まかり通るより :北口駅は
できたが、ガードの方は相
変らずで、雨が降れば水浸
し、また狭くて大きな車は
通れない。こんどはガード
の拡張工事をやらねばなら
ぬ。これなくしては沼津の
発展はない。こういう声が
地元で高まっていた。その
ころ、遠藤代議士が岸内閣
の建設相に就任したので地
元の沼津市で祝賀会が開か
れた。
市内千本の遠藤邸に永野運
輸相と藤山外相がみえたの
で挨拶に伺うと、私は三人
が話をしていた奥の座敷に
通された。こんなチャンス
はまたとない。
ここでガード拡張の糸口を
つかまねばならない。さて、
どう切り出したものかー。
「遠藤さん このたびは大
臣にご就任でおめでとうご
ざいます。ところで一つ私
はうまいことを考えついた
のですが如何でしょう。こ
れは昼寝していても代議士
に当選する方法なのですが
……」選挙といえば大臣で
も眼の色を変える。私は第
一球を投げて相手の出方を
うかがった。「なんだ、 な
んの話だ」はたして永野さ
んが身を乗り出してきた。
「それは沼津の南北の問、
盲腸の手術をやるのです。
この手術をしないと沼津は
発展しません。こいつを遠
藤さんにやってもらいたい
のです。
もし、ガードの拡張が実現
すれば駅北住民の遠藤さん
への感謝はたいへんなもの
だと思います。幸い所管大
臣の永野運輸相もおられる
ことだし、ぜひご尽力願い
たいものです」「遠藤君、そ
ういうことがあるのかね」
永野運輸相がいうと遠藤さ
んが「どのくらいかかるか
ね」 と私に聞いた。「駅長
の話ではガードの改築をや
ると一億五、六千万円ぐら
いはかかるそうです」永野
さんがまた一膝乗り出して
「そんなわずかなもんかい。
そんないいことがあるなら
君やろうじゃないか」とい
とも簡単に遠藤さんにそう
言った。
その間、五分も経ったろう
か。これでガードの改築が
きまってしまった。予算は
建設省でとるのだが、仕事
は運輸省がやるのだから両
者の連絡がうまくつかなけ
れば仕事にならない。それ
が所管大臣が二人、それも
時の首相岸信介と親分、子
分の関係にありた二人が同
席しているときに話を持ち
20
出したので、たちまちまと
まってしまった。
すぐ陳情書を出せというの
で、私が会長をしていた駅
北開発促進同盟会の名で陳
情書を出した。ガードは三
十七年四月一日 ついに開
通した。』
昭和 37 年 5 月 商店街振
興組合法公布
昭和 38 年 2 月 5 日 沼津・
三島間路面電車(チンチン
電車)廃止(明治 39 年 11
月 28 日沼津三枚橋・三島広
小路間路面電車開通)
昭和 38 年 2 月 6 日 駿豆肥
料店火災(幼い兄 5 歳、妹
2 歳焼死)
昭和 38 年 3 月 沼津石油
コンビナート反対運動盛り
上
昭和 38 年 昭和 34 年から
着工した東海道新幹線。モ
デル線でのテスト走行を繰
り返し、試作車が開業の前
年、最高速度時速 256km
を達成した。夢の超特急が、
東京−大阪間を結ぶのを、
人々は心待ちにしていた。
昭和 38 年 4 月 スパーマ
ルトモ本社ビル建設(地上
6 階地下 1 階)
昭和 38 年 10 月 15 日 長崎
屋沼津店、センター街より
移転開店(平成 14 年 1 月
閉店)
昭和 38 年 十字屋、南仲見
世(新仲見世)から仲見世
移転開店(有明軒ビル)(仲
見世店平成6年11月末閉店)
昭和 38 年 12 月 沼信本店
ビル上本通りに新築
(昭和 25 年 4 月 20 日 大
手町商工会議所内にて沼津
信用組合営業開始 名取栄
一理事長)
昭和 39 年 1 月 23 日 大手
町会館落成
昭和 39 年 3 月 16 日 沼津
信用金庫本店新ビル移転営
業開始
昭和 39 年 4 月 市営千本
浜水族館廃止(昭和 25 年 4
月 15 日千本公園に開館)
昭和 39 年 4 月 15 日 上本
通り共栄会、水銀街灯設置
計画発表(白壁明敏会長)
「水銀灯の街造り 上本通
りでも 65 灯 上本通り商
店街(白壁明敏会長)は、 夜
の商店街を明るくするため、
水銀灯を新設する。昨年上
土町がおこなったものとほ
ぼ同様で五月末ごろ着工の
予定。約六百万円の費用を
投じ町方町アーケード商店
街の北側から東映劇場前交
差点までに六十五灯の水銀
灯をとりつける。工事は現
在のネォン灯の柱を利用す
ることになっており、中元
大売出しまでには完成する。
できあがれば夜の街がこれ
までより数倍明るくなり、
買物客の増加が期待されて
いる。 (沼朝昭和 39 年 4
月 15 日号)」
昭和 39 年 5 月 6 日 株スー
パーマルトモ第二種大規模
店舗表示
昭和 39 年 6 月 10 日 旧国
道地下道開通
昭和 39 年 7 月 1 日 淡島海
洋交園オープン
昭和 39 年 9 月 5 日 沼津ゴ
ルフクラブオープン(27 ホ
ール)
昭和 39 年 9 月 5 日 いさ
みやアーケド街より仲見世
進出開店
昭和 39 年 9 月 13 日 コ
ンビナート反対住民運動、
石油コンビナート進出反対
沼津市民総決起大会(第一
小学校校庭)に 25,000 人集
まり、9 月 18 日、市長、誘
致断念を発表
昭和 39 年 10 月 1 日午前
6時 東海道新幹線開通
昭和 39 年 10 月 3 日 沼津
軒駅前本店新築オープン
昭和 39 年 10 月 10 日 東京
オリンッピク開催
昭和 39 年 10 月 ボウルビ
ルオープン(上本通り商店
街)
昭和 39 年 12 月 リコー通
りアーケード完成(昭和 37
21
年高島町大通り商店会から
リコー通り商店会と改名
昭和 39 年 12 月 商工会議
所が「上本通り商店街総合
診断」 実施決定(昭和 40
年 1 月~3 月診断)
昭和 40 年 3 月 無形文化
財:加藤唐九朗壁陶板画:
(静岡商工資金協同組合ビ
ル竣工:添地)
昭和 40 年 3 月 20 日 旧国
道地下街「味の近道」開店
(8 店舗)
昭和 40 年 4 月 1 日 振興組
合沼津アーケード名店街設
立
昭和 40 年 4 月 沼津警察
署、新庁舎落成(三園町)
昭和 40 年 7 月 狩野川放水
路竣工
昭和 40 年 12 月 1 日 富
士急名店会館開店(実質平
成 25 年 3 月末で営業終了)
「明二日いっせい開店の沼
津駅前富士急名店会館は、
東京、横浜など全国にその
名を知られた老舗、有力店
が八十店近く出店するが、
当沼津市内からは、太陽堂
ヵメラ店、丸一高橋、杉浦
洋服店、増山食品、旭園本
店、秋月、マルサン書店、
大岡農園、ササール洋装店、
庄司産業、木村屋、三島屋
酒店、魚新商店、森田菓子
店などが進出することにな
った。 (沼朝昭和 40 年 12
月 1 日号広告記事)」
昭和 41 年 1 月 沼津セン
ター街振興組合設立昭和
41 年 5 月 いさみや倒産
(負債 8 億円)
昭和 40 年頃の沼津のタク
シー会社名
○ベルタクシー(株)○共
栄自動車(株)○御殿場自動
車(株)芙容タクシー沼津営
業所○ツバメ自動車(株)○
沼津交通(株)○三津観光タ
クシー(株)○新東海交通
(株)○伊豆箱根鉄道(株)沼
津ハイヤー営業所○大国タ
クシー(株)○平和タクシー
(株)○三園タクシー(株)○
大洋交通(株)
昭和 41 年 7 月 1 日 沼津市
役所新庁舎完成
昭和 41 年 9 月 25 日 丸井
沼津店進出開店(平成 16
年 5 月閉店)
『(静岡新聞平成15年 12
月 10 日朝刊より)丸井沼津
店 5 月閉店
中心商業地集客力低下は必
至
丸井(東京)が沼津市大手町
の丸井沼津店を来年五月の
大型連休明けに閉店し、撤
退する方針を決めたことが
九日、分かった。 同店は
JR 沼津駅南口に広がる商
店街の中核店舗。
市が進める駅前再開発ビル
が商業施設から住居中心の
構成になったことに加え、
撤退で中心商業地としての
集客力低下は確実で、地元
商店街や沼津商工会議所は
深刻に受け止めている。
同店は七階建て、売り場面
積三干八百六十八平方㍍。
一九六六年(昭知四十一年)
九月にオープンした。しか
し、売リ場が狭い上にエス
カレーター設備もなく、
「店舗大型化を進めている
中で、品ぞろえや設備面で
十分なレベルにすることが
できなかった」 (広報部)と
いう。一時は駅前再開発ビ
ルの核テナントとして入居
する話も浮上したが折り合
わず、最終的に閉店を決め
た。跡地利用は決まってい
ない。
中心商店街に衝撃
「街の真ん中に爆弾が落ち
たような衝撃」。 沼津市の
中心商店街を引っ張ってき
た丸井沼津店の閉店が明ら
かになった九日、地元商店
街は驚きを隠さなかった。
歳末商戦を迎える中、商業
関係者からは「沼津全体の
イメージ低下が気掛かり」
「駅前という立地がもはや
有利に働かないということ
か」と不安視する声が相次
22
いだ。 JR 沼津駅南口から
同店を経て仲見世商店街に
抜けるのが、市内でもっと
も通行客の多い場所と言わ
れる。しかし、駅前では近
年、十字屋、ニチイ、長崎
屋が撤退するなど大型店が
振るわない。
同市商店街連盟の芦川勝年
会長も「これからの商業地
は立地ではなく、魅力ある
個店がどれだけ多くあるか
が問われるのではないか」
と指摘する。同市が中心商
業地再生の目玉として、駅
南口で進める再開発ビルの
専門店誘致にも、丸井の撤
退がイメージ的にマイナス
に働くことを市関係者は危
ぐする。山田寧助役は「商
店街のにぎわいには買い物
客の回遊性確保が重要。影
響は大きい」と懸念してい
る。』
昭和 41 年 11 月 25 日 沼
津上本通り商店街振興組合
設立総会(上本通り共栄会
より)
『発展期す上本通り商店街
振興組合を結成
昭和四十一年十一月二十五
日創立総会
水銀灯設置など、商店街整
備に意欲を見せていた上本
通り商店街では、さらにそ
の振興をはかるため、現在
の商店会を発展的に解消新
たに商店街振興法にのっと
った「上本通り商店街振興
組治」を結成することにな
り 二十五日午後一時から
沼津僧用金庫会議室で創立
総会を開く。アーケード街、
上土センター街、仲見世通
り、その他駅前周辺など市
内の商店街は年々整備がす
すんで来ているため、これ
らに負け ない新時代に即
した商店街作りを実現する
よう同組合が結成されるこ
とになったもので、市内で
この種法組合を結成するの
は仲見世、上土、アーケー
ド街につづき、上本通りが
四番目。
創立総会では定款、事業計
画を決定したあと、役員の
選出などを行うが、新組合
員には同地区九十九店舗が
加入、アーケード(公共歩
廊) の補修、 歩車道の整備、
水銀灯など夜間照明の整備
拡張、 共同大売出し、 さ
らに仲見世商店街と共同し
ての仲見世通りー上本通り
をつなぐ東西道路への全面、
又は両側アーケード建設事
業などを積極的に行ない、
駅に近いという地の利を生
かした消費者に好かれるシ
ョツピングセンターの実現
につとめる。
また他商店街に比較して商
店の本建築が若干遅れてい
た上本通りでは、共同ビル
の建設気運が最近次第に高
まって来ているため、組合
が中心になってこれらの.
事業も強力にすすめて行く
ことを計画している。(沼
朝昭和41年11月23日号)』
昭和 42 年 1 月 12 日 遠藤
新聞舗二階火災
昭和 42 年 1 月 20 日 静浦
ホテル閉館(昭和 10 年開館)
『静浦ホテル 昭和三十年
(一九五五)八月二九日の静
岡新聞に「十年ぶりで日本
側へ沼津静浦ホテル」とい
う見出しの記事が掲載され
た。 以下に引用する。
沼津市志下の静浦ホテル
(経営者清水はるさん)は終
戦以来駐留軍兵の海浜保養
所として使用されていたが、
九月末日限り契約を解消す
る旨同ホテルに正式通達が
あり接収後丸十年ぶりで米
軍の手を離れることになっ
た 同ホテルは去る廿一年
春米軍将校用の保養施設と
して接収され廿七年に解除
はされたが引続き米軍と再
契約 以来下士官の宿舎に
使用されていた。建物は地
上三階地下一階、三二室で
八十五名の従業員を雇って
いる。解放後は接収前の観
23
光ホテルで再スタートす
る。』
昭和 42 年 2 月 8 日 沼津
上本通り商店街振興組合第
一期総会開催
昭和 42 年 2 月 22 日 沼津
会館全焼
昭和 42 年 7 月 吉野寿司ビ
ル(上本通り商店街)竣工
昭和 42 年 7 月 15 日 家具
のカトー(上本通り商店会)
新築新装オープン
昭和 42 年 7 月 28 日 沼津
東高校、御幸町から岡宮へ
移転
昭和 42 年 8 月 30 日 沼津
市中心市街地 9 路線全面駐
車禁止となる
昭和 42 年 10 月 1 日 沼津
商業高校、丸子町から清水
町徳倉に移転
昭和 42 年 10 月 1 日 富士
急百貨店開店(実質平成 25
年 3 月末で営業終了)
昭和 42 年 10 月 1 日 桃中
軒会館開館(総工費 10 億
円:地下 2 階地上 8 階)新
築大手町 6 番地
『桃中軒は明治二十四年
(一八九一年)四月一日の創
業、秀吉は三代目である、
初代の三千三は 明治維新
のころ 徳川十五代将軍と
ともに江戸を去った旗本の
一人。ーとあります。
〃 桃 中 軒 " と 言 え ば 沼 津
沼津と言えば"桃中軒"と言
っても良い程、親しめ、愛
されてきた老輔です七階の
宴会場の窓からは、駅越し
に雪を戴いた富士山を望見
し、 南側の特別食堂《スタ
ーダスト ・ルーム》からは、
眼下を流れる狩野川から港
湾、香貫山、そして遠く千
本浜を眺望する、まさに沼
津がそこにある感がありま
した。
沼津という土地柄は、海産
物といい、農作物といい、
豊富な産物があり、それが
桃中軒のお弁当、食堂の味
に密接につながっていると
は専務のお話です。
そこで消費される、お米や、
お惣菜はバク大なものがあ
ります、一例をあげるとあ
る農協の一日分の注文だけ
で、お米で五十石とのこと、
もちろん、お米は自家精米
だそうです。
戦後、赤レンガのグリルで
親しまれていた桃中軒グリ
ルが、現在の駅前ビルにな
ったのが昭和四十年です。
今では、地階にパーラー、
お好み食堂。七階に特別食
堂《スターダスト・ルーム》、
宴会場《松琴・弥生》があ
り、八階は、大宴会場《高
砂・富士・羽衣》、結婚式場
《鳳厘》の間があります。
七階は、他に《桂》《葵》《栄》
《翁》《翠》《錦》と名付け
られた個室があり、八階イ
ンペリアルフロアでは、写
真室、美容室、控室、と結
婚式の全てが用意されてあ
ります。(月刊狩野川№23)』
昭和 42 年 11 月 西武百貨
店本館 7 階増築
昭和 43 年 3 月 2 日 港大橋
開通(全長 180 82 メートル、
巾 16 メートル:2 億 4690
万円)
昭和 43 年 3 月 5 日 緑屋開
店(いさみやビル:営業時
間 10 時~20 時) (昭和
51 年閉店)
昭和 43 年 4 月 原町、沼
津市と合併
昭和 43 年 5 月 我入道の
渡し終わる
昭和 43 年 6 月 ほていや
進出(仲見世「富士峰ビル」)
昭和 43 年 7 月 御殿場線
電化
昭和 43 年 新仲見世アー
ケード完成
昭和 43 年 協同組合沼津
商連会館設立
昭和 44 年 沼津郵便局本
局(昭和 4 年建設)大手町
から市場町へ移転
昭和 44 年 1 月 第 6 代会
頭岡野喜一郎就任
昭和 44 年 4 月 25 日 新幹
線三島駅開業
24
(三島操車場の昇格 新幹
線の新駅 関係市町村で一
致
国鉄新幹線の東部駅設置間
題は関係者の熱意が急速に
高まっているが、市は近日
中に冨士川以東田方郡下ま
での関係各市町村当局に呼
びかけ、実現運動をすすめ
るための組織作りに乗り出
すことになった三島操車場
を昇格することに関係者の
意向が固まってきたので、
東部駅設置促進同盟会程度
の組織を再編成するととも
に、国に対する強い運動を
起す計画で、四月中に組織
化を終り、地元関係代議士
の協力を得て陳情などを実
施する。国鉄などの新幹線
に対する考え方が変り、地
元の運動いかんでは実現の
可能性もあるといわれてい
るだけに 東部を一丸とす
る新組織の運動成果に期待
がかけられている。:沼朝昭
和40年4月1日記事より)
『 三島駅の謎
新幹線でここだけ通過線
が外側、待避線が内側にあ
る、三島駅には上下各 1 線
ずつの通過線か外側に敷か
れ、その内側に島式ホーム
1 面と待避線となる 2 本の
線路とが設置されている通
過線をもつ新幹線の駅のう
ち、三島駅以外の各駅は皆、
内側に通過線、外側に相対
式ホームと待避線かそれぞ
れ 1 線ずつという線路配置
が標準だ。 したがって、こ
の駅の線路配置は他の新幹
線の駅には見られない独特
のものとなっている。
なぜこのような線路配置と
なっているかというと、列
車が頻繁に折り返すことを
前提としてつくられたから
だ。単に折り返すだけなら
ば、通過線が内側にある他
の駅でも渡り線を設けてお
けばできる。 しかし、 多
くの列車が折り返すとなる
と、通過列車の運転されて
いる本線を折り返し列車が
逆送したり、横切ったりす
るのであまり好ましいこと
ではない通過線を外側に置
き、内側の線路で折り返す
ようにすれば、通過列車の
運転されている本線とは分
岐と交差だけで済む。東海
道新幹線開業当時の国鉄は
こう考えて三島駅の線路配
置を決めたようだ。
三島駅の線路配置にも欠点
はある上下双方の本線の問
にホームと線路とが置かれ
ているために、駅の前後で
通過線がカーブを描いてし
まうのだ。ホームの幅は最
低 9 メートル、待避線の幅
は 4・6 メートルずつなので、
少なくとも 18・2 メートル
は膨らんでいることになる。
因鉄の資料によればカーブ
は上りの通過線だけに存在
するという。地形図で測定
すると、この曲線は三島駅
の前後それぞれ約 500 メ
ー トルにわたって設けら
れ て い て 、 そ の 半 径は
6000 メートル。 最高速度
時速 270 キロの列車が減速
する必要はないが、曲線に
は変わりはない。カントは
70 ミリ設けられていて、
直線区間と比べれば線路の
保守は面倒だ。そのためか、
後に建設された新幹線では
折り返しが必要な場合でも
待避線を通過線の外側に取
るようになった。
ところで、三島駅の歴史は
ややこしい。熱海駅から
15・87 キロ(実キロ)しか離
れていないため、東海道新
幹線の開業時には設置され
ず、1969 年(昭和 44)4 月 25
日に開設されたからだ。
東海道新幹線開業後、国鉄
は温泉客でにぎわう熱海駅
への利用客のために東京熱
海問の区間列車を運転しよ
うとした。しかし、 熱海駅
構内は敷地が狭く、列車が
折り返すためのスペースが
ない。そこで、当初は静岡
25
駅て折り返し、熱海ー静岡
問は回送列車として運転す
る計画を立てる。これは無
駄だと考えた国鉄は、三島
駅付近に折り返すための折
返線 1 線と車両を留置する
ための電車留置線(でんり
ゅうせん) (以下電留線)を
3 線を置く。 この折返線は
現在の三島駅のホーム付近
に設けられた。工事は開業
直前の1964年(昭和39)年7
月 に始まり、 1966 年(昭
和41)年9 月27日から使用
を開始している。
折返線と電留線は効力を発
し、早速拡充する必要に迫
られた。
このとき、地元から駅を設
置してほしいとの要望が出
される。検討の結果、国鉄
は必要な土地 5700 平方メ
ートルを無償で提供し、工
事費 5 億 5000 万円(現在の
約 18 億 217 万円)を全額負
担するならばという条件を
付け、駅の設置が決まった。
工事は 1967 年(昭和 42)2
月にスタート。新たに 12
線 つ く ら れ た 電 留 線 は
1968 年(昭和 43)10 月 1 日
に完成し、三島駅は先に記
したとおり、1969 年 4 月
25H から営業開始の運びと
なる。
東海道新幹線三島駅の現在
の乗車人員は 1 万 3696 人
(2003 年度)熱海駅の 4974
人(同)を大きく上回ってい
る。三島駅の開設は地元に
とっても国鉄、そして JR
東海にとっても「お得な買
い物」となったのだ。
(新幹線謎と不思議:梅原
淳著)』
昭和 44 年 5 月 26 日 東名
高速道路開通
東名高速道路 全線開通
東京と名古屋を結ぶ高速自
動車道路、 東名高速道路。
前年の一部開通に続き、全
線開通した昭和44年5月
26日の開通式の様子。東
京インターチェンジから小
牧インターチェンジまでの
東名高速全長346. 8
kmは、小牧で4年前に開
通した名神高速道路とつな
がり、日本の交通の大動脈
となった。
昭和 44 年 7 月 駅前地下
道開通
昭和 44 年 7 月 21 日 アポ
ロ 11 号月面着陸成功
昭和 44 年 9 月 沼津商工
会議所御幸町新築開所(昭
和 5 年以来の大手町から御
幸町移転新築)(平成 26 年
5 月まで御幸町、 新館は米
山町)
昭和 44 年 12 月 沼津御用
邸 (明治 26 年 7 月造営)
別邸としての使命終わる、
沼津市に移管。 (昭和 45
年 7 月御用邸記念公園オー
プン)
昭和 45 年 1 月 5 日 駅前通
り商店街会 駅前通り商店
街振興組合に移行。(初代
理事長柴田一男氏)
昭和 45 年 1 月 沼津鳶職
組合新年梯子乗り披露始ま
る
昭和 45 年 3 月 1 日 沼朝
記事「上本通りの梅原花店
脇の西への道路幅 6 メート
ルを 12 メートルに拡幅整
備が立ち退きが進ます実施
がおくれている」
昭和 45 年 スカンジナビア
号 (ステラ・ポラリス号)
沼津市西浦木負 767 番地沖
に投碇昭和 45 年(1970 年)
7 月 25 日-フローティン
グ・ホテル・スカンジナビ
ア開業。
《平成 17 年(2005 年)3
月 31 日-フローティングレ
ストラン・スカンジナビア、
ハマナ・コスタ営業終了。》
《平成 18 年(2006 年)8
月 31 日-沼津ホテル、 西熱
海ホテル、大仁ホテル、下
田プリンスホテル営業終了。
スカンジナビア号、スウェ
ーデンの企業『ペトロ・フ
ァースト社』へ売却、修理
のため上海に向けて曳航さ
26
れ沼津を出航(9 月 2 日に
和歌山県潮岬沖で沈没)。》
『スカンジナビア「思い出
ありがとう」市民らが贈る
言葉
沼津・故郷へ新たな船出
海に浮かぶホテル レスト
ランとして三十五年間親し
まれた元客船「スカンジナ
ビア」が沼津市内浦湾を離
れた三十一日 沿岸には別
れを惜しむ多くの市民が詰
め か け 優 美 な 「 女
王」の姿が消えていくのを
見守った。出発に先立ち現
地で行われたセレモニーに
は、一般市民約三百人が参
加。地元の小中学生が贈る
言葉を述べ、「たくさんの
思い出をありがとう。これ
からもみんなに愛される船
でいて」などと呼び掛けた。
同船は約十日間の航行で中
国・上海へ到着し、船体を
修復した後、スウェーデ
ン・ストックホルムへえい
航され、海上ホテル、レス
トランとして再出発する。
(静新 06 年 9 月 1 日)』
『「スカンジナビア」・地元
住民らが保存する会(沼朝
平成17年3月15日号)
伊豆箱根鉄道の観光施設フ
ローティングレストラン・
スカンジナビアが、今月三
十一日で営業を終了する。
現在、売却先を探している
が、地元住民や賛同者が発
起人となり、世界的な海事
資産として、また、沼津の
観光資源としての保存を呼
び掛ける「スカンジナビア
号を保存する会」を発足。
このほど発会式をスカンジ
ナビア号船内ホールで開い
た。日本海洋記者クラブ事
務局長の三宅啓一さんによ
る基調講演や 発起人によ
るパネルディスカッション
が開かれ 一般の講者とし
て斎藤衛市長や市議らも参
加したスカンジナビア号は、
五、 一〇五㌧、 全長一二
七㍍。一九六九年にコクド
(当時国土計画)がスウェー
デンの実業家から購入し、
翌七〇年、西浦木負にアン
カーを降ろして三十四年余
りになる。 かつては 「ス
テラ・ポラリス」 という名
称のクルーズ客船として世
界の海を駆けめぐった歴史
がある。ノルウェーの代表
的な海運会社の船として、
一九二七年にスウェーデン
の造船所で建造され、少人
数の旅客を対象に高品質の
クルーズを提供する豪華客
船として造られたヨッ ト
型船体で、マストや高い煙
突があるが、当時のクルー
ズ客船としては初めての試
みとなる最新のディーゼル
エンジンを搭載。 アメ リ
カの富豪層を顧客としたク
ルージングが行われた。
四〇年代にはドイツ海軍の
占有下に置かれ、軍事的な
利用で荒れ果てた時期もあ
ったが、終戦後修復されて
スヴェーデンに戻り、所有
者が変わりながらも六九年
に運航を休止するまで第一
線で活躍した後 日本に売
却されたステラ・ポラリス
号は木負の地でスカンジナ
ビア号に改称。日本で初め
ての洋上ホテルとして営業
を始め、話題を呼んだ。し
かし、バブル崩壊後の景気
低迷で売り上げが落ち、九
九年にホテル部門の営業を
休止。レストランと船内見
学の営業形態を取ってきた
が売り上げが伸びず、年間
の維持管理費もかさみ、今
年に入って営業休止を発表。
売却先を探すことに。
保存会は、 三島市の IT 関
連ソフトメーカー「サンプ
ラス」社長の大田黒敦雄さ
んと、スカンジナビア東側
で喫茶店「海のステージ」
を経営する前島希久也さん
の出会いにより、準備期間
一週間で発足の運びとなっ
た。
大田黒さんは九六年以来、
27
スカンジナビア号にライブ
カメラを設置して富士山の
画像をリアルタイムで世界
に発信するボー.ムページ
「ずっと富士山」を主宰。
五百六十万件のアクセス数
を誇る人気サイトに成長し、
高校の教科書でも紹介され
ている。大田黒さんは、ス
カンジナビアの営業終了に
伴いカメラの移設を検討。
ホームページで告知したと
ころ、営業終了を惜しむ声
が多数聞かれ、面識のなか
った前島さんからは、「スカ
ンジナビア号を保存する活
動をしたい」とのメールが
寄せられた。早速 前島さ
んに会いに行った大田黒さ
んは互いの意思を確認 知
人らに呼び掛け 「スカン
ジナビアの営業終了前に
船内で発会式を開き活動を
開始しよう」と 一週間後
の発会式の開催が決まった。
発会式では、代表に就任し
た大田黒さんが、「スカン
ジナビア号に富士山ライブ
カメラを設置して、毎日百
力国から約四千人がアクセ
スしている。スカンジナビ
ア号から眺める富士山が富
士山の定番だと考えている
人も多い。歴史的な価値も
高く、 すごい船だと思う。
何とかこの場所に残すこと
ができないか、皆さんの知
恵を借りて保存していきた
い」と話した。
基調講演をした三宅さんは、
日本海事広報協会が発行す
る海と船の雑誌「ラメール」
の編集にも携わり 、海洋レ
ジャーや船舶関係を専門と
するジャーナリスト。スカ
ンジナビアの営業終了の話
を聞き、「ステラ・ポラリス
は世界的な海事資産で文化
財。国際的な視野で完全保
存すべき」 と立ち上がり
独自に保存を呼び掛ける活
動を開始。石川嘉延県知事
や斎藤市長にも手紙を書い
ている。千葉県に住むが、
沼津で保存会が発足するこ
とを聞いて自費で駆け付け
た。三宅さんは、ステラ・
ポラリス号が沼津に来るま
での歴史を自作の模型を見
せながら詳細に説明し、「船
を、より購入金額の高い企
業に売却するのが経済原則
だが、経済原則に反しても、
文化財という立場から保存
方法の質で売却先を決める
べき」と訴えた。船の保存
方法には、スカンジナビア
号のような浮体施設として
の係留保存、簡易ドックや
陸上への上架保存、船体の
陸上への埋め込み保存、吃
水線上(水から上に出た部
分)の船体のみの保存など
があることを紹介。
三宅さんは、「係留保存には
多額の維持管理費が掛かる
ため、売却先では吃水線上
で切断され、陸上の施設と
して利用される可能性が高
い。船は大気と水の境界面
上に、水中にある船体の浮
力によって存在するもの。
歴史的資産、文化財を保存
するという視点に立つと、
目に見えない部分は切り捨
てるという手法を取っては
ならない」と訴えた。また、
ミカン畑に囲まれ、富士山
を望む現在地が景観的に素
晴らしいことを指摘する一
方で、「切り刻んで保存され
るくらいなら、造船したス
ウエーデンに買い取っても
らうか、いっそのこと解体
してしまった方がいい」と
話した。引き続きパネルデ
ィスカッションが開かれ、
発起人の五人が順にスカン
ジナビア号に寄せる思いを
語った。
その中で前島さんは、「西浦
の自然環境とスカンジナビ
ア号の美しさを楽しみにし
て毎年訪れている人もいる」
と話し、NPO 法人ステップ
熱海のレーダー春江理事長
は、「素敵なキャビンで食事
をしてテーブルマナーを学
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沼津の商店街―戦後昭和史1行12字新

  • 1. 1 沼津の商店街―戦後昭和史 ―焼け野原から逞しく起ち 上がった沼津の商人たち― 沼津上本通り商店街振興組 合 理事 長谷川 徹 • 記録をまとめた理由は? 昭和 32 年(1957)に地 方第 1 号の支店として沼津 店が進出してから半世紀に わたり沼津市民や周辺地域 の住民に親しまれてきた西 武百貨店。 平成 25 年(2013)1 月 31 日の西武沼津店の撤退、 その日の夜の閉店セレモニ ーを記録しようとして出か けたとき、その現場で多く の人たちが送別の悲しみを 感じている様子を目の当た りにしたことが主な理由で す。 【参考資料 新東亜の幹線 東京~下関に廣軌鐵道(弾 丸列車用)を敷設 (昭和 13 年 12 月 26 日東 京朝日新聞) • 弾丸列車線路予定地 兎に角将来の大都市空襲備 えて帝都はすべて地下線と する、都心から発車した列 車が顔を出すのは神奈川縣 で、そこから新丹那トンネ ルを通過して沼津へ出で、 静岡市のやや北を経て浜名 湖北を通過して名古屋に出 る】 沼津商業界昭和戦後史 昭和 20 年 8 月 中島飛行 機株式会社三島製作所木瀬 川分工場、富士産業株式会 社と改称 昭和 20 年 10 月 沼津駅引 揚・復員者案内所開設 昭和 20 年 11 月 米軍 60 名千本中央青年学校に進駐 昭和 20 年 12 月 本田町海 軍共済病院、沼津市立病院 となる 昭和 21 年 復興が始まる上 本通り 昭和 21 年 映画館建設ラッ シュ 《平和館:収容人員 306 人 ( 城 内 元 龍信亭 跡) ・沼津松竹:収容人員 408 人 (本町元杉本旅館 跡) ・沼津映画劇場:収容 人員 506 人(大手町元城内 呉服店跡):復興》(本通り 東宝劇場:収容人員 570 人・本町演劇館;収容人員 270 人・本通り沼津第一東 宝館:収容人員 509 人:新 築)(静岡新聞昭和 20 年 12 月 21 日号) 昭和 21 年 1 月 15 日 御殿 場線大岡駅開設 昭和 21 年 2 月 下香貫旧 海軍技研の建物を市立第二 病院とする 昭和 21 年 3 月 煙草ピー ス・コロナ発売(県内静岡・ 浜松・沼津・熱海四都市の み販売) 昭和 21 年 5 月 1 日 沼津駅 前で戦後初めてのメーデー 3500 名参加 昭和 21 年 6 月 17 日 昭和 天皇沼津行幸、片倉工業等 視察 昭和 21 年 8 月 富士製作 所賠償指定管理工場となる (昭和 27 年 4 月まで) 昭和 21 年 不二家食品沼津 工場 水飴製造で復興 (昭 和 11 年 4 月沼津工場設立: 缶詰製造、乳製品の食品工 場)(ミルキーは沼津工場で 生産された水飴と練乳で開 発製造昭和 26 年銀座不二 家で発売) 昭和 21 年東京麻糸紡績株 式会社沼津工場スフと麻の 混紡製造で復興 昭和 21 年大川螺子製作所 民需に転換製造再開 (片浜村出身の大川栄作氏 が大正 13 年東京で創業、 昭和 13 年沼津工場新設本 社所在地とした) 昭和 21 年 10 月 5 日 東部 商工会議所創立:岡野豪夫 会頭(昭和 30 年現在の沼津 商工会議所へ認可)
  • 2. 2 昭和 21 年 11 月 1 日~3 日 沼津復興祭(狩野川花火大 会復活) 昭和 21 年 11 月 3 日 新憲 法発布祝賀・沼津港開港祝 賀・沼津港線開通 (狩野川 河口内港) 昭和 22 年 旧百貨店法廃 止 昭和 22 年 戦後第 1 回歳 末売り出し(主催商工会議 所・後援市役所) 昭和 22 年 10 月 全国木工 機械展覧会:富士製作所会 場 昭和 23 年 4 月 1 日 大洋 無尽株式会社沼津市上土町 東側に進出(昭和 26 年 10 月 20 日株式会社太陽相互 銀行と改称、その後合併を して静岡相互銀行さらに静 岡中央銀行となる) 昭和 23 年 6 月 観光協会再 発足(昭和 27 年観光協会社 団法人で新発足) 昭和 23 年 6 月 高島町・ 本田町より市議会へ沼津駅 北口設置請願 昭和 23 年 戦後第 1 回中元 売り出し(主催商工会議所) 昭和 23 年 8 月 沼津市警 察署発足(内務省警察から 自治体警察へ移管) 昭和 23 年 8 月 1 日 沼津夏 祭り開幕 昭和 23 年 10 月 大阪麻糸 株式会社が工場を沼津市東 熊堂に建設 昭和 23 年 11 月 上滝圧力 機株式会社再建 昭和 23 年 12 月 株式会 社産業科学研究所設立(元 沼津海軍技術研究員集団: 千本郷林) 昭和 23 年 12 月 第 3 代会 頭石橋治郎八就任(前任者 第 2 代会頭岡野豪夫から) 昭和 24 年 2 月 沼津商工 会議所第 1 回役員会(議題 沼津駅北口設置・仮称片浜 駅新設請願) 昭和 24 年 3 月 芝浦機械 製作所再発足(企業再建整 備法施行発令) 昭和 24 年 3 月 国産電機 再発足(企業再建整備法発 令)(昭和 21 年 2 月 20 日 軍政部より民需品転換許可 がでる) 昭和 24 年 3 月 昌和洋行 (昌和製作所)沼津工場再 稼働(企業再建整備法・昭 和 35 年山葉発動機傘下) 昭和 24 年 3 月 旧海軍工 廠跡地をめぐり 金岡開拓組合と岳南組合と の乱闘事件 昭和 24 年 3 月 24 日 沼津 市大門町大火 122 戸消失 『 大門の火事は二十四日 午後三時頃に五十メー ト ルばかり北にある大通りを 渡ったかぶとや玩具店のセ ルロイドに何かの火が移り、 無風状態だったのに出火と 共に火勢は強くなり火勢は 西へと拡大した。安田屋の 計ちゃんと二人で火元の隣 の下駄屋の荷物を、往来へ 運び出していたのだが。火 勢と共に吹き出した強い風 に煽られて、いつしか火は 大通りを南に渡って今は裏 の方から、凄まじい火勢で 紅蓮の炎は戦災バラックを 瞬時に舐め尽して我が家に 迫って来る。 あの広い道路の向い側に出 した家具も輻射熱で今にも 燃え出しそうだった。火も ないのに突然軒先から発火 した。乾燥し切った上に、 あの高温に達すると火の気 は無くとも燃え上った。バ ケツの水をこの家具にかけ ると一瞬にして水蒸気とな り 激しい音だけが残った あの日のことが今も眼底に 残る。 水の便が悪くて消防車から の放水は殆んど無かった。 僅かに清水村の消防団が狩 野川から中継で送水してい たから、この消防士に頼ん で地下室のあたりに放水し て貰った。若い三人が道路 上の荷物の夜番をしてくれ たので、くたくたに疲れた
  • 3. 3 体を八幡町で仮眠した。 一夜明けた火事場では焼け 残った畳や建具の争奪戦が 展開されていた。戦災バラ ックのとんとん葺の屋根ば かりだったから意外に火の 廻りが早かったし、又思い 掛けない飛び火の原因にな った。吾が二階家も流石の 火勢に骨組みだけ残す姿に なるのに三十分とはかから なかった。眼の前で総べて が灰燼に帰し、羽目板は宛 も紙切れ同然にバリバリ音 を立て、四散した。戦災バ ラックは火災をより大きく するばかりだった。隣の岡 田さんが火事の最中に男泣 きしている姿には哀れを催 した。尤も百数十軒の罹災 者の中で、火災保険加入の 最高が古安肉店の百万円で あり、三番目に多い自分が 七十万円だった。材木もま だ統制品であったが、火事 見舞に来てくれた下河原の 鈴木製材にこの時既に出荷 の承諾を得て居た。【類焼と 発病(一杉和一著「古希」自 叙伝より)】』 昭和 24 年 6 月 1 日 沼津― 静岡間電化(昭和 24 年 6 月 日本国有鉄道設立) 昭和 24 年 7 月 中小企業 等協同組合法公布 昭和 24 年 7 月 1 日 三島 信用金庫沼津支店開店:大 手町 (昭和 26 年 7 月幸町支店 開設:昭和 35 年 5 月 4 日 カトリック教会跡地に移転 新築・平成 19 年 12 月 10 日建替新築) 昭和 24 年 12 月 沼津・三 島間直通電話開通(市外交 換不要になる) 昭和 25 年 3 月 1 日 東京― 沼津間に湘南電車運転開始 (東京・沼津間 2 時間 30 分の快速電車) 昭和 25 年 5 月 「弘報ぬま づ」創刊第一号発行 昭和 25 年 4 月 3 日 沼津信 用組合設立(昭和 26 年沼津 信用金庫に改組) 組合長名取栄一・出資者 1109 人・出資金 4,464,600 円 『昭和20年の八月十五日 に戦争は終わったものの、 市街地は焼野原と化してし まった。市民は家を焼かれ 財を失なって、芒然自失し た。農・漁民や俸給生活者 はとにかく、一番困まった のは、中小企業、商店街の 人たちであった。復興に先 立たつものは金であった。 バラックの借店舗は何とか 建てたが、商品を仕入れる 資金を簡単に貸してくれる ところがなかった。名取翁 は、沼津市の戦災復興のた めには、何よりもさきにこ の中小企業者たちを再起さ せる金融機関をつくらなけ ればならないと考えた。岡 田吾市、勝亦干城、竹内鉄 次郎、寺尾利平、木村清太 郎、諏訪健次郎、塩谷六太 郎、植松与三郎、杉山金次 郎、宇野秀吉氏等と相談し て、中小企業等協同組合法 による沼津信用組合の創設 にとりかかった。 名取翁が発起人代表となり、 当時の商工会議所議員が発 起人となって、昭和二十五 年四月三日に沼津商工会議 所ホールで創立総会をひら いた。組合長に名取栄一が 満場一致で推され、専務理 事に寺尾利平、常務理事に 木村清太郎、理事に岡田吾 市、竹内鉄次郎、杉山金次 郎、増田慶三、諏訪健次郎、 西山倉吉、渡辺好郎、石橋 治郎八、塩谷六太郎、勝亦 干城、植松与三郎、小池直 次郎、鈴木万吉、宇野秀吉、 杉山猪作、山田長次郎、山 本清、金子一六、渡辺唯吉、 矢田唯雄、後藤寿雄、監事 に佐藤英一、大古田金太郎、 柴田正、植松興作、小川藤 太郎の諸氏が選出された。 そして同年四月二十日から 商工会議所階下の一部を利
  • 4. 4 用して業務を開始した。出 資者は千百九人、出資額は 四百四十六万四千六百円で あった。 :名取栄一翁小伝 より』 昭和 25 年 4 月 千本公園 に市営水族館開館 昭和 25 年 5 月 駿河無尽 株式会社本店三枚橋から大 手町へ移転(昭和 27 年 6 月 30 日静神相互銀行に改 称、昭和 32 年 9 月 21 日静 岡相互銀行と合併、その後 静岡中央銀行と改称) 昭和 25 年 6 月 22 日 沼津 商工会議所: 「全市連合中 元大売出し実施要綱」(七 夕祭り:七夕飾り・七夕行 列) 昭和 25 年 6 月 25 日 朝鮮 動乱勃発 昭和 25 年 7 月 泉水源の 沼津市営水道、給水開始 昭和 25 年 7 月 内浦湾周 遊龍宮丸運行 昭和 25 年 10 月 国有財産 千本公園の市へ払い下げ決 定(28000 坪・90 万円) 昭和 26 年 6 月 矢崎電線 (株)(昭和 4 年 5 月藤倉 電線社員矢崎卓美が東京芝 に電線販売会社設立)沼津 兵器跡に沼津製作所進出 (昭和 33 年沼津工場完工) 昭和 26 年 6 月 富士ロビ ン(株)沼津製作所進出(昭 和 18 年中島飛行機三島製 作所木瀬川分工場跡) 昭和 26 年 8 月 清水銀行 大手町に沼津支店開設(昭 和 35 年鉄筋コンクリート で新築する) 昭和 26 年 9 月 8 日 サン フランシスコ平和条約・ 日 米安全保障条約調印 昭和 26 年 12 月 沼津専門 店会設立(月賦販売システ ム) (沼津リンクスストアから 27年専門店会へ名称変更) 『石橋治郎八著シルク紳士 まかり通るより:次に力を 入れたのは専門店会の育成 である。そのころチケット で月賦販売する専門店会が 関西からはやってきた。沼 津でも有志が集まって専門 店会を結成する計画が進め られた ところがその資金 はわずかに三十万円だとい う 私は顧問の資格でその 総会に出席して一席ぶった 「三十万円の資金ではせっ かく専門店会をつくっても 動きがとれないのではない か せめて百万円にしなさ い そのかわり 私が貴任 をもって静岡銀行から一千 万円の信用融資を取りつけ て あ げ ま す 」 。 もちろん会員たちは一も二 もなく賛成した 出資金を 百万円に増額する件はただ ちに可決されたのである。 こうして専門店会ができる と、 その PR のため大口消 費者である沼津を中心とし た有力工場の総務関係者を 招いてパーティを開いた。 私はその席上、商工会議所 会頭として次のような挨拶 を述べた。 「専門店会がチケットで月 賦販売をやるというと、あ なた方はおそらく市価より 高く売りつけるのではない かとお考えになるかもしれ ない。また、 それが従来の 月賦販売の常識でもありま す。しかし私が顧問として 専門店会に関係する以上、 現金正価と変わらない値段 で販売するということをこ こで約束いたします。どう してそういうことができる かと不思議に思う方もいる かもしれませんが 当会で は静岡銀行から一千万円の 融資を受けることになって おリ 商品はみな現金で仕 入れるので安く入手できる のです だからあなた方に も安い商品を提供できるわ けであります。どうか、そ の点は安心して当会とお取 引き願いたい」正価で月賦 この方針は図に当たった。 その後沼津専門店会は年々
  • 5. 5 発展し、静岡県下でも優秀 な成績をあげるようになり、 全国の専門店会のなかから 表彰されるまでになった。 同会が現在なお発展途上に あることは、まことによろ こばしいことである。大き な企業は放っておいても自 分でやっていけるが、小さ な企業はそうはいかない。 私は会頭としての仕事の重 点を中小企業の育成におい て努力したつもりである。』 『沼津専門店会とはどんな 組識なのだろうか。 その発足は 31 年前の昭和 26 年に遡る。 当時、 全国 的に日専連運動が展開され ており、静岡に専門店会が できたことにより.沼津に も創ってはどうかと、市内 の有力専門店の有志が集ま り、設立準備を初めたとい う。 当時は 「沼津リンク ストァ」という名称で、発 起人には、柴田屋柴田正、 正札堂田村靖雄、タチカワ 洋装店立川松吉、仁藤履物 店仁藤英一、光音カンパニ ー牧野洋三、大橋果物店大 橋規一、ヌマヅ薬局岡田仁、 高村洋服店高村銀作、 ヨ シムラ眼鏡店吉邨勇、トモ エヤ靴店佐野薫、伊豆屋呉 服店土屋秀夫の諸氏が並ん だ。加盟店は一業種一店が 原則であったが、一業種三 店程度にワクを広げ、参加 を募ったという。(昭和56 年7月ペルソン誌)』 昭和 26 年 丸高パチンコ 店転業開店(昭和5年大手 町で丸高家具店開業)(この ころ沼津市内に 102 軒のパ チンコ店あり) 昭和 27 年 2 月 沼津商店 街連盟設立 昭和 27 年 2 月 29 日 沼津 ロータリークラブ発足(チ ャターメンバー28 名) 昭和 27 年 3 月 沼津観光 協会社団法人で新発足 『石橋治郎八著シルク紳士 まかり通るより : 私は沼 津観光協会長を兼任してい た。 昭和二十七年のこと、 夏の人寄せに夏祭りを計画 し、 手はじめに西条八十、 中山晋平両先生に作詞作曲 を依頼して「沼津音頭」 と 「沼津夜曲」をつくっても らい、レコドーにも吹き込 んで、振リ付けも頼み、 こ れを町内を通じて普及する と同時に、夏祭りの気分を 高めるように努めた。夏祭 りは八月一日から三日問と し 観光協会の主催で狩野 川河口の御成橋を中心に仕 掛け花火なども用意して盛 大な花火大会を開いた。私 はこの夏祭りの宣伝のため、 沼津の芸者を狩り集め、満 艦飾のトラックに乗せて沼 津音頭のお披露目をし 近 村から修善寺伊豆半島と静 岡県東部一帯を巡らせた。 この三日間に集まった人波 はざっと二十万 商店街に 落ちた金は一億円にもなっ た。祭りは造るものである。 人は集めるものである。思 いがけぬ盛大な夏祭りにな って商店街もホクホクだっ た。私も生まれてはじめて のような大音声で 狩野川 河口で群衆にあいさつした おそらく〃街道 "一の〃 いい男"になっていただろ う、翌年の夏はちょうど沼 津御用邸にお出でになって いた皇太子殿下をお祭りに ご招待し、ご観覧の光栄に 浴した。この夏祭りは、 い までは東海道の名物となり、 毎夏盛大に行なわれている のである。 』 昭和 27 年 4 月 富士製作 所、製品海外輸出再開され る 昭和 27 年 5 月 「耐火建築 促進法」公布施行 昭和 27 年 5 月 沼津市立 図書館、千本に開館 昭和 27 年 沼津サービス 店会設立(月賦システム) 昭和 27 年 本通り共同住 宅建設組合設立
  • 6. 6 昭和 27 年 沼津市商店街 連盟設立 昭和 27 年(1952 年)9 月 20 日 西武百貨店第一期 開店(池袋) 昭和 28 年 沼津チェンス トアー設立(月賦販売シス テム) 昭和 28 年 1 月 石橋製糸 沼津工場(昭和 8 年林組倒 産により引き継いた)は二 十八年一月 個人商店から 株式会社として認められた。 昭和 28 年 2 月 1 日 NH K東京テレビ放送開始 昭和 28 年 3 月 沼津新駅 庁舎竣工 昭和 28 年 3 月 沼津駅デ パート開業 『石橋治郎八著シルク紳士 まかり 通る よ り。 【私 が任期中に力を入れたのは 沼津駅の改築である。戦災 を受けた沼津駅は終戦後も ずっとバラック建てのまま であった。当時、駅の改築 は地元の寄付が相当ないと 許可にならない建て前だっ た。 あるとき、塩谷沼津市長が 御殿揚で静養中の吉田首相 から耳よりな話を聞いてき た。「これからの駅のあり方 は構造を立体的にし、会社 の事務所やいろいろな商店 を置くようにしなければな らぬ」 という、 いわゆる 民衆駅の構想である。これ に力を得て 私たちは工費 一億円で鉄筋四階建ての駅 を建築する計画を立てた。 しかし国鉄側と話し合って みると、民間が使用する分 の建築費については民間の 全額寄付とする、さらにそ れを借りるときはこちらが 権利金を出したうえ毎月賃 貸料を払う、そして契約期 間は八十年から百年という 条件でなければ応じないと いう。すこぶるむずかしい 条件だ。これでは寄付金を 集めるわけにはいかない。 残念ながら沼津駅改築計画 は一時見送りとなった。 それで私は沼津駅の改築の ことは半ば諦めていたのだ が、そのことがあってから 六、七年たった頃、こんど は国鉄側から話が持ち込ま れてき。沼津駅改築の予算 が四千万円ほどとれたが、 地元から千五百万円の寄付 が必要である。そのた金が 見込がつかなければ、改築 はできないから予算も他に まわすことになるだろう、 ということであった。千五 百万円の寄付を集めること は容易ではない。しかしこ の機を逸すると、沼津駅の 改築は当分お預けとなる。 あれやこれやと思いあぐね た末、私は国鉄側に沼津駅 改築の図面をみせてもらう ことにした。図面をみれば、 なにかいい考えが湧くかも しれないと考えたのである。 詳細に図面を検討したとこ ろ、改札口の上が百二、三 十坪空いているのを発見し た。これだ!これを活用す る以外に手はない。私は早 速この「空所を七、八十年 の賃貸契約で貸してくれる なら千五百万円の寄付は引 き受けます」と国鉄に申し 入れた。しかし国鉄側では 七、八十年の賃貸契約では むずかしい、こちらの条件 をのむなら応じようとの返 事で譲らない。結局国鉄側 の言いなりになるよりほか なかった。すでに駅弁を入 れている桃中軒が二、三十 坪を二百五十万円で引き受 けることになっていたので、 会議所としてはあとの百坪 を借りる条件で千二百五十 万円の寄付を引き受けるこ とになった。 これはいいささか独断専行 のきらいがあった。しかし、 ある場合は、この程度の蛮 勇をふるわなければ何事も 成就しがたいものである。 私は国鉄との契約は伏せた まま、しばらく形勢をみる
  • 7. 7 ことにした。そのうちにい よいよ国鉄側は改築に取り かかり、新しい駅に対する 一般の関心が高まってきた。 ころはよし、私は会議所の 役員会を招集し、百坪の賃 貸と寄付問題をはかった。 「新駅ができるについて階 上の百坪を借りることがで きる。 ただし、これには条 件がある。場所に甲乙はつ けるにしても、平均坪十三 万円の権利金がいる。権利 金といっても、その内容は 寄付金だから権利証をもら うわけではない。さらに毎 月賃貸料を払わねばならぬ。 また不良品を客に販売する ようなことがあれば、解約 するといった条件もついて いる。したがって百坪を細 かく分割して個人にやらせ ると解約されるものが出な いとはかぎらない。そこで 私が責任者になって"沼津 ステーション・デパート株 式会社"をつくり、設備の一 部を整え、あとは個人で経 営するといった形をとった らどうだろうか。一応会社 が金を出して、そのうえで みなさんにまた貸ししたと いう形をとれば、個人に不 手際があっても解約される ことはあるまい。こういう 条件で坪十三万円で借りる 人がいるだろうか。希望者 が少なければ、東京方面に 有力な借り手があるから、 そちらへ頼むことになる。 私は地元の発展のために、 沼津で全部引き受けてくれ ればそれに越したことはな いと思うのだが……」 「問口一問、奥行四尺ぐら いのところが十三万円とは 高過ぎる。坪十三万円かけ れば新しい店ができるじゃ ないか」こんな反対論がガ ヤガヤと出はじめた。 「商工会議所としては、一 応引き受けたから、みなさ んにおはかりしたが、希望 者が少なければ東京の有力 者に貸すことになる。希望 者は二週間以内に申し出て もらいたい」これ以上話し 合っても、ここではまとま るまい、考える時間を与え た方がいいと思ったので、 私はそう言って役員会を打 ち切った。二週間経って、 ふたを開けてみると、なん と申し込みは二・七倍もあ り、こんどは割当に困るほ どだった。予想通り私の作 戦 が 奏 効 し た わ け で あ る。 】』 昭和 28 年 7 月 八幡町に 沼津市公会堂竣工 昭和 28 年 7 月 市制施行 30 周年協賛行事実施沼津 市 30 周年記念沼津商店主 の宣伝自転車部隊 昭和 28 年 7 月 本通りで 仮装踊り・沼津夏祭り駅前 で商店会の沼津音頭踊り・ 千本浜公園でミス沼津審査 会 昭和 28 年 7 月 松菱沼津 店進出 (昭和 31 年エレベ ーター運転・ 昭和 46 年閉 店) 昭和 28 年 12 月 アーケー ド西側が完成(東西総工費 1 億 6 千万円・総面積約 2300 坪) 昭和 29 年 3 月 7 日 沼津青 年会議所発足 昭和 29 年 4 月 17 日 藤倉 電線(株) (明治 18 年藤倉善八東京 神田絹綿捲線会社創業:富 士根村王子製紙第二工場の 疎開から【東京人絹→沼津 海軍工廠→小糸車両工場】 跡に)沼津進出 昭和 29 年 7 月 沼津市警 察署から県沼津警察署に (市警から県警に) 昭和 29 年 7 月 仲見世商 店会「七夕まつり」始まる 昭和 29 年 11 月 アーケー ド東側完成し本通りアーケ ード街全面完成アーケード 街 『アーケード街は西側が昭 和二十八年十二月に、東側
  • 8. 8 が同二十九年十一月に完成 したが、総工費は約一億六 千万円、 総延面積七、 五 九〇平方メートル(約二、 三〇〇坪)商店数五〇に及 ぶ大規模なものであった。 この商店街の二階以上が歩 道に突出しているのは、都 市計画による道路拡張のた め各店舗を後退させる必要 があったのを、松菱百貨店 の建物の移動が困難なため、 便宜的に松菱の一階に歩道 を貫通させ、他の商店はこ れに準じて一階だけ後退さ せ、二階以上は店舗兼住宅 に利用させるという苦肉の 策がとられたものである。 これは全国でも類のない建 築方式で沼津の一名所とな り、四季を通じて各地から 視察に来る特異建築となっ た。またこの地区は沼津市 美観地区条令によって、こ の商店街は美観地区に指定 されることになった。これ により電気看板の大きさ、 螢光灯の位置なども一定さ れ 、美観を害する造作物の 設置を禁じられている。要 するに商店街共同建築のモ デルケースとなったのであ る。 (沼津市誌)』「戦後復 興事業と防火建築帯事業合 併事業:沼津市史」 昭和 29 年 11 月 9 日防火帯 共同建築関係識者報告会: セメント協会 主催社団法人セメント 協会•後援沼津市・昭和 29 年11月9日• 場所 沼津市 庁•御出者・ 建設省村井 建築防災課長•住宅金融公 庫関東支所松本貸付課長、 藤沢建設課長補佐•静岡県 庁久保田建築企画係長•沼 津市•松下建築課長、落合都 市計画課長、鈴木建築課長 補佐、内田住宅営繕係長、 鍵山建築指導係長、内海建 築課主事、袴田都市計画課 書記•沼津市美観審査委員 会望月委員長•沼津市本通 共同住宅建設組合•岡田理 事長、杉山(猪)副理事長、 海野副理事長、鈴木副理事 長、杉山(進)副理事長•建設 工学研究会小芦専務理事、 今泉常務理事、高田現場監 督•清水建設株式会社 後 藤静岡出張所長、坂現場主 任、成瀬現場主任、蜷川現 場主任•セメント協会徳永 専務理事 昭和 29 年 中ノ島水族館 (昭和 5 年開館)が三津水 族館に改称、高台に新館を 建設 昭和 29 年 9 月 12 日 沼津 牧水祭始まる 昭和 29 年 百貨店の特殊 指定 昭和 30 年 4 月 1 日 愛鷹・ 大平・内浦・西浦4カ村沼 津と合併 4月 29 日 浮島村、原町と 合併 昭和 30 年 4 月 1 日 駿河銀 行、 旧本店跡地(通横町) に戦後大手町仮本店社屋か ら新築開店(鉄筋コンクリ ート地下 1 階地上 4 階) 昭和 30 年 8 月 沼津本通 りアーケード竣工 昭和 30 年 伊豆国立公園指 定される。 昭和 30 年(1955 年)堤清 二が西武百貨店取締役店長 に就任 昭和 30 年 稲村椎茸問屋上 本通りへ進出 昭和 31 年 3 月 第 4 代会 頭田中清一就任 昭和 31 年 第二次百貨店 法成定 昭和 31 年 3 月 15 日 沼津 宝塚劇場開館 『"沼津寶塚劇場"完工(東宝 系)いよいよ 3 月 15 日開館 上本通り東海劇場前に昨年 1 月から清水市鈴与建設が うけおつて着工始めた総面 積二百二十五坪鉄筋コンク リート三階建の工事は、最 後の追い込みに日夜懸命の 作業を続けているが、いよ いよ十五日春の陽ざしに柔 かく映えるクリーム色の劇
  • 9. 9 場、 沼津宝塚劇場と命名 (社長猪俣勝人氏、支配人松 本一己氏)し開舘する。東宝 系、冷暖房装置、客席六百、 収容人員千名、シネスコ・ スクリーン常備、ほう画ワ イドスクリーン使用、富士 セントラル最新式影写機、 発声器ビクター二階喫茶室 にテレビ、公衆電話を備え 客のサービスに当り、化粧 室は全部水洗便所で県東部 一をほこる劇場となるわけ。 開館披露第一週目は十五日 から二十日まで鶴田 三船 出演の「暗黒街」、香川、木 村出演の「奥様は大学生」 を上映する。(黎明新聞昭 和 31 年 3 月 15 日号)』 この時点での沼津の映画館 は沼津文化劇場、沼津第一 劇場、沼津映画劇場、沼津 宝塚劇場、沼津銀星座、沼 津東海劇場、沼津セントラ ル劇場7館。 昭和 31 年 上本通り商店街 (沼津文化劇場前歩道)を 行く若い女性。 昭和 31 年 御殿場線、蒸気 機関車からジーゼルに(昭 和 42 年から電車が走る) 昭和 31 年 小田急ディー ゼルカー御殿場乗り入れに 対し沼津駅まで延長を国 鉄 ・ 小田急に陳情(第1 次小田急沼津乗り入れ運動) 昭和 31 年 5 月 第 2 次百 貨店法公布 昭和 31 年 東海道線全線電 化完成(昭和 9 年丹那トン ネル開業、東京駅―沼津駅 間電化完成) 昭和 31 年 6 月 1 日 松菱デ パート:エレベーター設置 運転。 昭和 31 年 6 月 5 日 銀星座 映画館新装開館(松竹・東 映) 昭和 31 年 7 月 2 日 沼津法 人会創立総会(沼津商工会 議所ホールにて) 昭和 31 年 7 月 喫茶店プ リンス新築開店 『新装開店新築改名御挨拶 新名プリンス 旧名沼津名 産喫茶部皆様に愛された喫 茶「めいさん」を今度「プ リンス」と呼んで下さい。 プリンスは新築の落着いた 雰囲気で心から皆様をお待 ちしております。喫茶プリ ンス「沼津駅前 TEL 四七九 六六八」(沼朝昭和31年7 月26日号広告)』 昭和31年8月23日 『日限 地藏尊 蓮光寺へ建立 三 枚橋と三芳町の町内会では、 予算六十万円で蓮光寺境内 へ日限地藏尊を建立すること になった。 二十万円は鈴木製材が寄 付、 十万円は両町内のお 婆さんが托鉢で集め、 残り 三十万円を両町内で十五万 円ずつ献出し、 八月二十三 日の祭典までに完成する(沼 朝昭和31年5月26日号)』 昭和 31 年8月 西武沼津 店進出問題(この時点、既 に駿鉄ビル建設は着工され ていた) 商店街連盟(会長大橋規一 氏)では二十七 日午後二時 から商工会議所で役員会を ひらき、対策について協議、 意見書をとりまとめて九月 五日までに通産省企業局商 務課へ提出。 『駅前に西武百貨店 廿七 日商連が対策協議 駅前、駿鉄の角へ西武百貨 店沼津支店が建設される。 地下一階、地上六階、三三 七〇・六九一平方米の近代 百貨店で、駅前の一偉観と なるが東京資本によるこの デパート進出に対して、商 店街連盟では、二十七日午 後二時から役員会をひらき、 対策を講ずると共に、意見 書を通産省企業局商務課に 堤出する。 地上六階のビル 来年二月 から開業 西武百貨店(東京都豊島区 池袋二丁 目一一八八)では 大手町五番地駿鉄角へ、沼 津支店の新設を計画し〃
  • 10. 10 西武鉄道、駿豆鉄道ビル〃 として清水組によって工事 が進められているがこれは 鉄筋コンクリーと六階建三、 五七〇・六九一平方米(地下 一階四二四・一〇四平方米 地上六階三、 一四六・七平 方米)の近代百貨店で、松坂 屋静岡支店よりは小さいが、 松菱沼津支店の二倍ほどの 大きさ。塔屋には、さらに もう一階延べ七階のビルで、 衣料、家庭用品、雑貨、 食 料品、 加工修理、 卸売な どの売場のほか、 美容室 (三三平方米)食堂(四〇二平 方米)が計画され営業開始 は三十二年二月末日からと 予定されている。 商店街に脅威? 五日までに 意見書 松菱につづいて、それより も更に大きいこの西武百貨 店の進出に対して、商店街 では生命線を脅かされるも のとして強硬に反対する向 と 却って商店街の繁栄に なるものと、意見はさまざ ま商店街連盟(会長大橋規 一氏)では廿七日午後二時 から商工会議所で役員会を ひらき対策について協議 意見書をとりまとめて九月 五日までに通産省企業局商 務課へ提出することになっ た。《沼朝昭和 31 年 8 月 24 日 (金)号》』 『 西武百貨に街の聲廿九 日に諮問委員会 本紙既報のとおり、西武百 貨店では(駅前駿鉄角に地 下一階地上六階、三三五七 〇・六九一平方米)沼津支店 の建築に着手、来年二月末 開業の準備を進めているが、 市民間では市の繁栄策とし て歓迎する者と、商店街は 生命線か脅かされると反対 する者と、二つの意見か対 立している。これに対し商 工会議所では 二十九日午 後一時から卸売業者、小売 業者、百貨店、消費者各代 表、学識経験者、公共団体 職員、商議所役員など二十 数名で構成する諮問委員会 (商業活動調整協議会)を ひらき、九月五目までに通 産省企業局商業課に意見書 を提出する。 生命線を脅かす" 西武デパート沼津進出に対 して、今日午後三時から大 手共栄会、仲見世商店街、 上土振興会、上本通共栄会、 アーケード街大成会、南部 商店街、沼津専門店会、沼 津サービス店会、沼津チエ ーンストア会の代表者は商 工会議所に集って協議した が、商店街連盟としては生 命線を脅すものとして反対 を表明、諮問委員会にこれ を具申すると共に、通産省 企業局商業課に陳惰を行う ことになった。 各代表者の意見ー 田村靖雄氏(アーケー ド街 大成会) 沼津の人口は周辺を入れて 十五万人だ。静岡や浜松の ように周辺人口を加えて三 十万もある都市なら影響は 少いだろうが、沼津では共 倒れになる公算大だ。将来 はどうか知らないが、現状 では反対だ。 柴田正氏(上土振興会) 駅前に大資本のデパートが 出来るということは、商店 街にとつて非常な脅威だ。 たださえ立地条件のわるい 上土の商店街は大打撃にな る。多数の地元商店の死活 問題として遠慮してもらい たいというのが、大部分の 意見だ。 加藤俊輔氏(上本通共栄会) 市の発展のためには結構だ という人があるかも知れな い、また商店としても、立 場によっては喜ぶ人がある かも知れない。それぞれ利 害の立場に於いて違うと思 うが、商店街としては脅威 だ。反対せざるを得ないと 思う。 杉山猪作氏(沼津サービス
  • 11. 11 店会) 大反対だ。駅前に六階層も の大デパートが出来たら、 大手も、上土も、本通りも、 木町の商店街も客がここで、 食いとめられしてしまい。 苦しいやりくりを続けてい る商店街にとつては大打撃 だ。 消費人口は増える だが商 店街は大打撃 大川角太郎氏(仲見世商店 街) 狭い見地から賛否をきめる のはいけないと思う。早計 にきめず、静岡や浜松の事 例をよく調整したい。 大竹新太郎氏(南部商店街) みんなの意見はまだまとま っていない。しかし個人の 考えとしては、困るには困 るが、防げないではないか と思う。大デパートが来る ことによって、市は繁栄し、 また消資人口もふえると思 うが、これがはたして商店 街にいい結果になるかどう か、デパートはよくとも、 われわれは駄目になるので はないかと心配だ。 山本義重氏(沼津専門店会) 専門店会ではチケツトを利 用して、長期分割収入を行 っているが、東京あたりの デパートでも、これと同じ 方法で月賦販売をはじめて いる。大資本のデパートで、 同じことをされたらとても かなわない。 渡辺盛作氏(沼津チエーン ストア) 反対もあり、贅成もある人 の利害によっていろいろ違 うが、大勢は反対の線だ。 《沼朝昭和 31 年 8 月 28 日 (火)》』 『沼朝新聞昭和 31 年 8 月 30 日号記事:賛否両意見を 提出 "西武百貨の公聴会“ 駅前に建築工事をはじめて いる西武百貨店沼津支店の 新設に対して、利害閣係あ る事業者及び団体、学識経 験者などを以て構成する沼 津市商業活動調整協議会は きのう午後一時から商工会 議所会議室で公聴会をひら いたが、東京資本のデパー トの進出は商店街を脅かす として反対するものと時期 尚早を論ずるものと、これ とは別の見地から、大局的 に市の繁栄になるとして賛 成するもの場から活発な意 見が開陳された。 同協議会では、九月五日ま でに通産省企業局商務諜に 意見書を提出することにな っているが、結論に至らな いでの、公聴会そのまま発 言をまとめて提出すること になった。 市の発展になるだが商店街 は反対 西武百貨店の新設について 意見か求めるため商業活動 調整協議会では、各階層か ら次の二十三氏を委嘱、き のう午後一時から公聴会を ひらいた。 ◇商業活動調整協議会委員 百貨店代表西川伝九郎(松 菱沼津支店長)卸売業者代 表岡田吾市(酒類卸商)同増 田慶三(魚類卸商)同大橋 規一(沼津青果市場専務取 締役)小売代表吉邨勇(大手 町大栄会々長)同柴田正(上 土振興会会長)田村靖雄(ア ーケード大成会会長)同加 藤俊輔(上本通り共栄会会 長)消費者代表大野虎雄(市 社会福祉協議会副会長)井 関幸子(市連合婦人会会長) 稲玉むめ(市赤十字奉仕団 長)竹内鉄次郎(県士木建協 会東部支部長)学識経験者 西脇仁(商業高校校長)中江 斎(工業高校々長)加藤ふじ (女子商業高校々長)地方 公共団体職員内藤政次(沼 津電話局長)土持留男(市商 工観光課長)杉山善四郎(市 農林水産課長)(沼朝昭和 31 年 8 月 30 日号)』 『西武反対不可能か 百貨 店審査会五月まで見送り 駅前に建設中の西武デパー
  • 12. 12 ト開店をめぐって地元小売 商の反対と消費者の賛成意 見が衝突、営業許司の実際 的発言権を持つ百貨店審査 会が十六日開かれ、最終的 決定がでるものと注目され ていたが、中村東京通産局 長は、地元商店街連盟と西 武側とが折り合わず、正面 衝突の状態でいるため遂に 審査会を延期、建物が竣工 する五月まで双方の歩みよ りを期待する態度をみせて いる。 沼津商店街連盟杉山会長は じめ幹部八名は森商議事務 長と同行、十六日東京通産 局を訪れ、中村局長と会見、 反対陳情を行い、種々懇談 したが、百貨店審査会開催 を通産大臣に答申する権限 を持つ局長は、「建築も現在 進行中のことではあるし、 絶対的に反対は扱いに困る し、影響についでは今後に 待たなければ好結果か悪結 果は判断はできず、むしろ 地元側としては夜間営業、 貸売、外売或いは売場など の制限や、商品の地元製造 品や卸品の買い上げなど協 定を結んで相携えていった ら却って好影響も期待され ないか、無論デパート側の 地元との不協力的なやり方 については注意する」との 希望意見を述べている。 これについて近く局長斡旋 でデパート側と地元商連と の会見が行われるものとみ られる。 (沼朝昭和 32 年 1 月 18 日 号) 西武百貨店に制限 商連が きょう申入れ 百貨店審議会を無期延期ざ せた沼津商店街連盟の西武 デパート開店反対運動は、 去る十六日通産局に陳情の 折、中村通産局長から「絶 対反対でなく、何んらかの 話し合いで、歩みよっても らいたい」との意向が伝え ちれたが、きよう二十五日 午前十一時から東京通産局 で杉山商連会長ら五名と西 武デパート代表五名が初会 見を行い、意見の交換を行 うことになった。 西武側としては地上五階地 下一階を全部デパートとし て使用したい気持らしいが、 地元商連側としは売り場階 数や外売りなどの制限を粗 当強く申入れるもようであ る。 (沼朝昭和 32 年 1 月 25 日 号) 西武商戦異状あり 商連と 話合い.物分れ 沼津駅前に進出、 着々 と 工事を進めている西武デパ ー(駿豆ビル)の全階営業(地 下一階、 地上六階)に反対 する地元沼津市商店街連盟 (会長杉山猪作氏)は二十五 日東京通産局長の斡旋によ り同局で西武側代表と初会 見をしたが 「全階は認め ぬ」 という地元側と “通 産局の妥協案に応じられぬ” の西武と双方の主張意見は 真向うから対立して物別れ となり 五月上旬竣工する 同ビルをめぐり開店の裁断 は通産局の腹一つとなった が 両者が譲らないところ から今後の成り行きが注目 されている。 仲裁案は二割削減 双方と もに譲らず 両代表の会議は二十五日午 前十一時から通産局で、地 元沼津商店街連盟から杉山 会長、吉邨 田村副会長、 土屋理事と森商議所事務局 長、西武側からは堤清二社 長(平成 25 年 11 月 25 日 死亡)、伊藤総務課長以下代 表五名が出席し、中村通産 局長と地元の世論を調査に きた江下商工課長が立ち会 って行われた。 この会見で西武側は全階営 業面積千八十坪の一割百八 十坪使用削減で地元の同意 を受け付けず中村局長は二 割の二百六坪を削ったらど
  • 13. 13 うかと提案したが“これ以 上の譲歩は絶対に出来ない” と断った。 これに対し地元沼津商店街 側は百貨店法にふれぬ範糊 内で営業(二階で営業場所 四百五十坪)するならばよ いがそれ以上では許せない と云い張り、双方の主張は 大きな開きをみせ、物別れ となってしまった。 この意見の対立をよそに工 事は一億二千万円の工費で 着々進められ、すでに五階 までを完了 、残る一階と内 外の装飾をするだけとなっ ているだけに、早期結論が 望まれている。しかし今後 の考慮を約して別れたもの の両者の歩み寄りは不可能 な状態なので、通産省の判 断で決定される状勢となっ た。(沼朝昭和 32 年 1 月 27 日号)』 『周辺業者も困る"西武"に 重ねて反対 駅煎に建設中の西武デパー ト開店をめぐって、地元商 店街連盟は百貨店法にふれ ない売り場面積(地下と二 階まで四百五十坪)を条件 に出したのに対し、西武側 は売場総面積干八十坪の一 割減を主張 通産局の二割 減の提案もお流れになって 通産省の断を待つことにな ったが、沼津商連とは別個 に沼津市周辺の小売業者 (駿東郡、富士郡)も再度反 対陳情を行うことになり、 二月一日、森沼津商議事務 局長の案内で駿東郡商工会 連合会長中野英太郎氏はじ め長泉、裾野、原各商工会、 富士商議などの代表十名が 上京通産局に反対陳情を行 い、石橋総理大臣、永田通 産大臣、徳永企業局長、中 村通産局長、工藤百貨店審 議会長に、大旨次のような 陳情書を提出する。 「西武沼津店の開店で、富 士川以東の小売業者の打撃 は大きい。殊に沼津駅を起 点とする御殿場線沿線中小 山町までの各地と西隣原町 以西富士郡下の零細小売業 者は手痛い影響を受け 倒 産者も多いと案じている。 昨年十一月八日反対陳情を 行つたが、遠からず竣工の 運びなので再度陳情する。 不許可か、売場面積の削減 を希望する。」 なお沼津商連では三十日午 後一時から商工会議所で役 員会を開き、西武側との交 渉経過報告を行い、今後の 対策を協議した。(沼朝昭 和 32 年 1 月 31 日号)』 昭和 31 年 11 月 2 日 丸共 総合食品デパート(スーパ ー)開店。 昭和 31 年 11 月 16 日 十字 屋沼津店大手町(南仲見世) 進出。(昭和 38 年仲見世有 明軒ビルへ移転) 昭和 31 年 12 月 復明館医 院仲見世から現在の大手町 へ移転新築開院(沼朝昭和 31 年 12 月 13 日広告) 昭和 31 年 12 月 石橋湛山、 内閣総理大臣に就任 昭和 32 年の映画館沼津市 (7)沼津文化劇場、沼津 第一劇場、沼津映画劇場、 沼津宝塚劇場、沼津銀星座、 沼津東海劇場、沼津セント ラル劇場 昭和 32 年 1 月 沼津軒駅 前広場東側移転新築開店 (沼朝昭和 32 年 1 月 29 日 号) 昭和 32 年 3 月 西武百貨 店沼津進出反対決議書(沼 津市商店街連盟:会長杉山 猪作) 昭和 32 年 6 月 1 日 駿豆鉄 道株式会社から伊豆箱根鉄 道株式会社社名変更 昭和 32 年 6 月 8 日 西武 デパート沼津店本館開店 (伊豆箱根鉄道所有土地建 物:建築施工清水組)(地下 1 階地上 6 階約 950 坪、建 設費 2 億 5 千万円、従業員 230 人) 《平成12年7月 (2000年)
  • 14. 14 株式会社西洋環境開発株式 会社負債5538億円で清算し、 「セゾングループ」 が実質的 に崩壊する。》 《平成25年(2013年)1月31 日西武沼津店閉店・55年の 歴史に幕が降りる》 『西武沼津店55年歴史 に幕 3万人来店、別れ惜しむ JR沼津駅南口の西武沼津 店(沼津市大手町)が31日、 閉店した。1997年の浜松店、 2006年の静岡店に続く閉店 で、県内から「SEIBU」の看板 が消えた。商都・沼津のシン ボルとして君臨した県東部唯 一のデパートは55年の歴史 に幕を下ろし、多くの市民が 別れを惜しんだ。 JR 沼津駅南口の西武沼津 店(沼津市大手町)が 31 日、 閉店した。1997 年の浜松店、 2006 年の静岡店に続く閉 店で、県内から「SEIBU」 の看板が消えた。 商都・沼 津のシンボルとして君臨し た県東部唯一のデパートは 55 年の歴史に幕を下ろし、 多くの市民が別れを惜しん だ。 午後 7 時半に営業を終える と、名残惜しむ買い物客を 従業員が深々と頭を下げて 見送った。店舗前で行った 式典で、山本辰美店長は「長 らくご愛顧いただいた当店 は本日、営業終了します。 多くのお客さまに深く感謝 します」と述べた。山本店 長には地元の沼津大手町商 店街振興組合(松田和孝理 事長)から花束が贈られた。 沼津店は旧西武百貨店が 1957 年、 地方第 1 号店と して開業した。「沼津で東 京のお買いもの」が当時の キャッチフレーズだった。 ピークの 92 年 2 月期は約 206 億円を売り上げた。 し かし、郊外型商業施設の台 頭などで 2012 年 2 月期は 74 億円まで縮小。10 年 2 月期から 3 期続けて赤字を 計上していた。 《静新平成 25 年 2 月 1 日 (金)朝刊》』 昭和 32 年 10 月 26 日~30 日 第 12 回国民体育大会 (上本通り商店会歓迎アー チ) 昭和 32 年 10 月 沼津駅北 口開設(開設工事 3 年半か かる) 『石橋治郎八著シルク紳士 まかり通るより : 以前、 沼津駅は南口だけで北口に 駅がなかったため、駅北へ 行く人は南口で降りてから ガードをくぐらねばならな かった。ところが、このガ ードはお粗末で雨が降ると 水びたしで通れない。年々 駅北の商店街も発展してく るし、北口に駅をつくろう という声は十年ほど前から 聞かれていた。だが線路が 十三本もある沼津駅に跨線 橋をかけると 国鉄の古材 を使っても一千万円はかか り それを含めて工事費は 全額地元負担でなければ着 工できないと、国鉄では言 っていた。これが北口に駅 を実現する上の最大の障害 となっていたのである。 しかし、なんとか実現しよ うという地元の強い盛り上 がりをバックにして、沼津 駅北開発促進同盟会が発足 し、私が会長になって運動 にとりかかった。 が 地元 で集められる金はせいぜい 一千万円どまりとあって 容易に実現しそうになかっ た。 私は高木沼津市長と何回も 国鉄静岡鉄道管理局へ足を 運んで陳情したが、うまく いかない。そこで地元選出 の遠藤代議士に一肌脱いで もらい、中央で建設省の建 設局長に便宜をはからうよ う頼んでもらったところ 「なにか特別の理由があり ますか」と聞かれた。 「雨が降るとガードに水が たまって、子供達が北部の
  • 15. 15 学校へ通えなくなります。 学校を休むわけにいかない ので、学生達は危険な線路 の上を歩いて通っているの が現状です。どうしても北 口に駅をつくらなければな りません」学生を持ち出し たのは、われながら上出来 だった。それならなんとか しようというわけで、建設 省から国鉄に話が持ち込ま れた。 すると、すぐ静岡鉄道管理 局長が本庁に呼ばれ、沼津 北口駅工事の計画案をつく るよう命ぜられた。そのあ とで管理局長に私が会うと 「石橋さん、東京でどんな ことを言ったのですか。 うまくやりましたな」とほ めてくれた。 国鉄が見込んだ工費は二千 万円あまりだった。うち地 元負担は、七、八百万円で、 あとは鉄道利用公債でまか なうことになった。いよい よ話がまとまったので、私 達は遠藤さんといっしょに 国鉄総裁室へ行った。ちょ うど総裁が外遊中だったの で副総裁と会った。結局、 副総裁は鉄道利用公債を使 うことに応じたが条件付き だった。 「いま国鉄運賃の値上げ問 題が起きていますが、遠藤 さんがこれに骨折ってくれ るなら、鉄道利用公債の件 を考慮しましょう。反対さ れるようなことはないでし ょうね」遠藤さんはちょっ と渋い顔をしたが「もちろ んだ」 と答えた。 こうし た政治的掛け引きに異論を はさむ向きもあろうが、と もかくこうして沼津北口に 駅が五年前に実現したので あった。これにはほかの人 の力もあったが、なんとい っても遠藤さんの力に負う ところが大きかったのであ る。』 昭和 32 年 11 月 中小企業 団体の組織に関する法律公 布 昭和 32 年 11 月 18 日 浅 間町商店街ビル完成(平成 21 年閉鎖:静鉄マンション 建設) 『浅間町商店街は多層家屋 建築と称し、総延坪数一、 六八三平方メール(約五一 〇坪)、総工費三、一五五万 円で 昭和三十二年十一月 十八日に完成した。店舗の 数は六戸で二階は住宅とな し三階と四階は十二戸の貸 住宅となっている。(沼津市 誌)』 『沼津朝日新聞昭和31年1 月 8 日号記事: 防火共同建 築第二陣 大手町 浅間町三 月早々に着工 アーケード に続く防火帯の第二陣とし て、浅間町および駅南小島 屋百貨店が四階建の防火建 築に三月早々着工する。 浅間町は神社東側八軒延建 坪五百八坪、一・二階が店 舗併用住宅、三・四階が分 譲住宅十六戸。小島屋百貨 店は延建坪四百十五坪、二 階以上が分譲住宅二十二戸 となる。工費は浅間町二千 九百万円、小島屋二千六百 万円で住宅公庫融資がそれ ぞれ千九百六十万円 一千 八百六十万円。なおこの分 譲住宅は五十年賦で分譲さ れる。 (沼朝昭和 31 年 1 月 8 日号)』 『 四 階 建 の 不 燃 建 築 浅間町六月ごろ完成か 全国に先きがけてアーケー ド街が本通りにお目見得し たが、不燃材料による横の デパートが六月ごろまでに 浅間町に完成され観光沼津 の名物となる。浅間町北側 の九軒が三干百五十万円で 四階建の不燃鉄筋建築を行 い、一、 二階を商店と横の デパー トにして三、四階を 住宅にするもの工事は現在 行われている下水工事が完 了と同時に始められるもの で三月ごろとみられ、竣工 予定は五月二十日となって
  • 16. 16 おり、防火地帯としての認 定が、このほど許可された ところから着手されたもの。 なお工費は公社借入八百七 十一万円、公庫千九百万円、 自己負担が六百四十五万円 でまかなう。またこれは駅 前十宇路の四百坪に二千八 百八十三万円の工費で、基 礎工事中の地下一階、地上 四階の小島屋と同様に、横 のデパートとして各地商店 街からも注目されている。 (沼朝昭和 32 年 1 月 25 日 号)』 昭和 32 年 商店街公共用 歩廊施設の建設助成を県知 事に陳情 昭和 33 年 3 月 10 日 赤線 廃止前夜記事 『昭和 33 年 3 月 10 日沼朝 記事より:昭和 33 年 4 月 1 日より売春禁止法に先んじ て、 沼津の特飲街は 3 月 10 日から転廃業。西条、八 幡町、市場町、錦町、西宮 後、上本通り、出口(青線、 白線)緑新地(赤線)。緑新 地=5 軒 10 人、添地=18 軒 46 人、八幡町=5 軒 10 人、その他 5 軒 8 人。計特 殊飲食 33 軒、女 74 人。昭 和 32 年 12 月末では 39 軒 女 127 人であった。』 昭和 33 年 4 月 1 日 売春防 止法(1956 年5月制定)の 完全施行 昭和 33 年 4 月 沼津仲見 世商店会(大橋光雄会長就 任) 昭和 33 年 7 月 8 日 朝日新聞 「東海道新線」着工いそげ 記事より [コース] 国鉄は昭和十 五年当時の案で東京ー大阪 間では平塚ー小田原、熱海 ー三嶋、 清水ー焼津、二川 ー蒲郡、大高ー枇杷島、大 阪駅付近の用地を二・九万 アール(八十七万坪)をすで に買収している。これは全 線に要する用地の約二割に 当る。資金の関係で、どう しても買収した用地を通過 する線が予想される。つま り東京から国府津までは直 線コースをとるため、横浜、 藤沢、平塚など大カーブの ところは通らない。国府津 から小田原、熱海は現在線 と平行に走り、掘り残され た新丹那トンネル(現在は 七八〇三㍍、新しいのは山 側で七九一〇㍍)を通り、沼 津をよけて駿河湾ぞいに静 岡の中心部から焼津、掛川 付近を経て、浜松から浜名 湖の新鉄橋を渡る。そこか ら再び直線コースで現在の 名古屋駅に入る。名古屋ー 京都間は鈴鹿山脈の下を直 線に抜けて大阪へ。これは 決定案ではないが、全線約 五百㌔、いまより五十㌔短 かくなっている。 昭和 33 年 5 月 消防庁(八 幡町)完成 昭和 33 年 8 月 21 日 沼津 駅前「愛の母子像」除幕式 (像作和田金剛・詩文井上 靖:沼津赤十字奉仕団設団 十周年記念) 『すべての人の幸せ 沼津 赤十字奉仕団 十周年に記 念式 すべての人々のしあわせを ねがい、蔭の力となって人 人に奉仕しましようーと、 沼津市赤十字奉仕団が設団 されてことしは十周年、同 団では二万団員のうちから 代表者二千五百名が集って、 きのう二十一日朝十時二十 分から駅前広場で〃 愛の 母子像〃 の除幕式を行い、 引きつづき午後一時から市 公会堂で記念式典を挙げ、 赤十字の旗のもと、さらに 「身近な奉仕をひろげ、す べての人人と手をつなぎ、 世界の平和につくしましよ う」と誓いを新たにした。 千羽の鳩舞い上る母子像と 詩碑の除幕沼津日赤奉仕団 では、きのう設団十周年記 念式典に先立ち、朝十時二 十分から駅前広場に団員一
  • 17. 17 一千五百名が集まって〃 愛の母子像〃 の除幕式を 行った。:(沼朝昭和 33 年 8 月 22 日記事)』 昭和 33 年 9 月 26 日 狩野 川台風災害 沼津―三島間 電車停止 昭和 33 年 11 月 1 日 東海 道本線ビジネス特急「こだ ま号」登場 昭和 33 年 12 月 19 日 新幹 線の建設計画が承認される 昭和 34 年 仲見世商店街 組合設立 昭和 34 年 4 月 20 日 東海 道新幹線起工式:十河総裁 (新丹那トンネル熱海口) 昭和 34 年 9 月 17 日 沼津 ライオンズクラブ設立(会 長塩谷六太郎・幹事宇野紳 七郎)認証式産業会館でお こなわれた。 昭和 34 年 11 月 第 5 代会 頭 岡田吾一就任 昭和 35 年 2 月 8 日 「東海 道広軌新幹線」コース内示 説明会 東海道線は昭和三一年(一 九五六)に全線電化を完了 したが、増加する輸送需要 にこたえるには抜本的な対 策が必要とされた。そこで 昭和三三年一二月 、新幹線 の増設が決まった。国鉄は 昭和三三年度から調査・測 量をはじめ、翌年度から着 工した(『東海道広軌新幹線』 日本国有鉄道)。 新幹線の ルートや駅の設置場所など の情報は厳重に秘匿され、 変更は至難といわれた。 市域のルートが地元に示さ れたのは、昭和三五年二月 八日十時、静岡市の町村会 館で開かれたコース内示会 が最初であった。内示会に は勝又沼津市助役が出席し 説明をうけた。沼津市では 戦時中に計画された弾丸列 車のルー トを前提に都市 計画を進めていたが、内示 会で示されたルートはずっ と北寄りの愛鷹山麓であっ た。この地域は、北に向か って発展中の沼津市にとっ ては、将来に残された希少 な開発可能地であった。助 役は、地元の意向と して、 弾丸列車のルートを希望す ると伝えたが、地盤の関係 で難しいというのが国鉄側 の説明であった(「沼津朝日」 昭和 35 年 2 月10日)。 これより先の昭和三四年七 月、沼津商工会議所常議員 会は、新幹線沼津駅設置運 動を起こすことを決めた計 画は極秘だが、県内の駅は 三駅程度、うち静岡と浜松 は決まり、東部地区は未定 と噂されていたためである。 この運動は立ち消えとなっ たらしく、新たな動きはコ ース内示後となった。 (静新昭和 35 年 2 月 9 日 朝刊) 国鉄新幹線坂本静岡工事局 長は「・・総裁の決裁、運 輸大臣の認司を経てコース が決定ずるが、ボーリング その他で支障ない限りこの コースが選定されよう・・・」 【神奈川県から】ー鍛冶屋 ー城堀ー伊豆山ー桃山ー湧 水所ー(新丹那トンネル) ―大竹―壱丁田南側―石田 北側―西熊堂―椎路北側― 鳥谷―青野―井出―境(こ こまでは根方街道北側を通 る)―大坪―日産自動車南 側―津田―東芝富士工場西 南端で現東海道線と交差南 側へー森島―(富士川を渡 る) 昭和 35 年 3 月 三枚橋に 沼津市立病院落成(昭和 63 年 7 月東椎路に移転新築) 昭和 35 年 3 月 裁判所・検 察庁・法務局完成 昭和 35 年 新幹線起工式 昭和 35 年 5 月 三信沼津 支店聖マリア跡新築移転 (昭和 24 年大手町に沼津 支店進出) 昭和 35 年 6 月 理研光学 (株) 沼津工場完成 (昭 和 11 年 2 月市村清 「理研 感光紙株式会社」設立東京
  • 18. 18 大田区) 昭和 35 年 7 月 上土セン ター街共同ビル完成 『上土商店街は当初東西両 側の全商店が、四階建中高 層耐火建築を造り、二階の 全面を歩道となし、ここに も商店街を設ける特異な建 築をなす計画であったが、 全部の足並みが揃わず、中 途で脱落者が出てきた。そ の結果三階建てと四階建て のまちまちな店舗ができて 一貫した建築とはならなか ったが 昭和三十五年七月 までに二十七戸の店舗が完 成し、いわゆるセンター街 として営業を開始した。こ の総工費は約一億八千万円、 総面積七一五〇平方メート ル (二一六七坪) で、 こ の中には最後に建築された マキバ百貨店は含まれてい ない。 (沼津市誌)』 『沼津朝日新聞昭和 31 年 11 月 7 日号記事: 四階の アーケード 上土振興会が 建設 上土商店街と通横町の一部 をふくむ商店街を以って組 織している上土振興会では、 仮設日除けの撤去を契機と して 四十三店舗(五十一 軒)が総工費三億円の予算 で 、 鉄筋コンクリート四階建の 準不燃大アーケードを建設 することになった。来年三 月着工、来年末までに完成 する計画を進めている完成 の暁は上本通りアーケード 街と相まって沼津の偉観と なるものと見られている。 名実ともに"名店街”間仕切 りなし 横のデパートに上 土振興会(通横町の一部を 含む四十三店舗、五十一軒) では、仮設日除けの撤去を 契機として、鉄筋コンクリ ート四階建の横のデパート とも言うべく大アーケード を建設することになった。 室賀薬局と太洋相互銀行か ら、大坂屋本店と長倉ガラ ス約二〇〇米の予定で、 一・二階は商業目的、三、 四階はアバート貸室とし、 屋上はテニスコートなども 備える遊園地を計画してい る。店舗は一軒あたり間口 三間、奥行十間ぐらいとす るが、各店舗の間切りをと り払って、横のデパート式 にしたいと言っており、ヒ サシはプラスチックとし、 エレベーターやエスカレー ターも設備する計画だと言 う。このアーケード建設の 目的とするところは、大資 本に立向うためには、各店 舗が個々の利益を誘えるこ となく一町内がカを結集し て、相互の繁栄をはからな ければならないとするもで 名称も「沼津名店街」とし て名実ともに名店街たらし めようとしている総工費予 算は三億円で、このうち約 八割五分は県住宅公社と住 宅金融公瞳から借り受け後 の頭金一割五分はすでに各 店平均十万円ほどの積立貯 金をしており準備が進めら れている。上土振興会の内 田祥司氏の話によれば来年 一月中に設計をすませ、三 月ごろから着工、来年未ま でに四プロツクに分けて建 設、完成する計画だ。 (沼 朝昭和31年11月7日号)』 『上土アーケード 今週中 に具体化 町方町から通横 町を結んで一大商業センダ ーを築きあげようとする上 土アーケード建設の構想は、 一時ストップ状態になって いだが、新年に入って急速 に話が進展、今週中には具 体的に決るもようである。 同アーケードは全国初めて の両側五十一軒を結ぶ四階 建鉄筋コンクリート建築で 二階にも歩道を設け階上商 店街も建設しようとするも ので、更に東西商店街を結 ぶ地下道を二ヵ所作り、こ こにも地下商店街を設ける 構想である。これに要する
  • 19. 19 工費は三億二千万円から四 千万円が見積られ 住宅公 庫の融資は愛けるが、全階 自己権利となり、自己資金 も二年前から日掛けを行い 資金面でも明るい見通しと なっている。 (沼朝昭和 32 年 1 月 25 日号)』 昭和 36 年 1 月 郡是製糸 沼津蚕種製作所閉鎖(跡地 5 年後下河原団地となる) 昭和 36 年 4 月 (株)明電 舎沼津事業所竣工(明治 30 年三吉工場より重宗芳水独 立創立) 昭和 36 年 4 月 29 日 ほて いや(ユニー)沼津店開店 昭和 36 年 10 月 1 日 2 日 日枝神社・浅間神社・八幡 神社(市場町)沼津秋合同 祭典(人出 15 万人) 昭和 36 年 11 月 沼津電報 電話局舎新築・自動式とな る 昭和 36 年 12 月 第1次仲 見世アーケード完成、開通 式 昭和 37 年 4 月 商店一斉 休日に制定 (毎月第二・第 三・第四水曜日) 昭和 37 年 4 月 1 日 中央 ガード改装開通(中央ガー ドはもと川であった、大正 12年関東大地震時には通 じていた) 『石橋治郎八著シルク紳士 まかり通るより :北口駅は できたが、ガードの方は相 変らずで、雨が降れば水浸 し、また狭くて大きな車は 通れない。こんどはガード の拡張工事をやらねばなら ぬ。これなくしては沼津の 発展はない。こういう声が 地元で高まっていた。その ころ、遠藤代議士が岸内閣 の建設相に就任したので地 元の沼津市で祝賀会が開か れた。 市内千本の遠藤邸に永野運 輸相と藤山外相がみえたの で挨拶に伺うと、私は三人 が話をしていた奥の座敷に 通された。こんなチャンス はまたとない。 ここでガード拡張の糸口を つかまねばならない。さて、 どう切り出したものかー。 「遠藤さん このたびは大 臣にご就任でおめでとうご ざいます。ところで一つ私 はうまいことを考えついた のですが如何でしょう。こ れは昼寝していても代議士 に当選する方法なのですが ……」選挙といえば大臣で も眼の色を変える。私は第 一球を投げて相手の出方を うかがった。「なんだ、 な んの話だ」はたして永野さ んが身を乗り出してきた。 「それは沼津の南北の問、 盲腸の手術をやるのです。 この手術をしないと沼津は 発展しません。こいつを遠 藤さんにやってもらいたい のです。 もし、ガードの拡張が実現 すれば駅北住民の遠藤さん への感謝はたいへんなもの だと思います。幸い所管大 臣の永野運輸相もおられる ことだし、ぜひご尽力願い たいものです」「遠藤君、そ ういうことがあるのかね」 永野運輸相がいうと遠藤さ んが「どのくらいかかるか ね」 と私に聞いた。「駅長 の話ではガードの改築をや ると一億五、六千万円ぐら いはかかるそうです」永野 さんがまた一膝乗り出して 「そんなわずかなもんかい。 そんないいことがあるなら 君やろうじゃないか」とい とも簡単に遠藤さんにそう 言った。 その間、五分も経ったろう か。これでガードの改築が きまってしまった。予算は 建設省でとるのだが、仕事 は運輸省がやるのだから両 者の連絡がうまくつかなけ れば仕事にならない。それ が所管大臣が二人、それも 時の首相岸信介と親分、子 分の関係にありた二人が同 席しているときに話を持ち
  • 20. 20 出したので、たちまちまと まってしまった。 すぐ陳情書を出せというの で、私が会長をしていた駅 北開発促進同盟会の名で陳 情書を出した。ガードは三 十七年四月一日 ついに開 通した。』 昭和 37 年 5 月 商店街振 興組合法公布 昭和 38 年 2 月 5 日 沼津・ 三島間路面電車(チンチン 電車)廃止(明治 39 年 11 月 28 日沼津三枚橋・三島広 小路間路面電車開通) 昭和 38 年 2 月 6 日 駿豆肥 料店火災(幼い兄 5 歳、妹 2 歳焼死) 昭和 38 年 3 月 沼津石油 コンビナート反対運動盛り 上 昭和 38 年 昭和 34 年から 着工した東海道新幹線。モ デル線でのテスト走行を繰 り返し、試作車が開業の前 年、最高速度時速 256km を達成した。夢の超特急が、 東京−大阪間を結ぶのを、 人々は心待ちにしていた。 昭和 38 年 4 月 スパーマ ルトモ本社ビル建設(地上 6 階地下 1 階) 昭和 38 年 10 月 15 日 長崎 屋沼津店、センター街より 移転開店(平成 14 年 1 月 閉店) 昭和 38 年 十字屋、南仲見 世(新仲見世)から仲見世 移転開店(有明軒ビル)(仲 見世店平成6年11月末閉店) 昭和 38 年 12 月 沼信本店 ビル上本通りに新築 (昭和 25 年 4 月 20 日 大 手町商工会議所内にて沼津 信用組合営業開始 名取栄 一理事長) 昭和 39 年 1 月 23 日 大手 町会館落成 昭和 39 年 3 月 16 日 沼津 信用金庫本店新ビル移転営 業開始 昭和 39 年 4 月 市営千本 浜水族館廃止(昭和 25 年 4 月 15 日千本公園に開館) 昭和 39 年 4 月 15 日 上本 通り共栄会、水銀街灯設置 計画発表(白壁明敏会長) 「水銀灯の街造り 上本通 りでも 65 灯 上本通り商 店街(白壁明敏会長)は、 夜 の商店街を明るくするため、 水銀灯を新設する。昨年上 土町がおこなったものとほ ぼ同様で五月末ごろ着工の 予定。約六百万円の費用を 投じ町方町アーケード商店 街の北側から東映劇場前交 差点までに六十五灯の水銀 灯をとりつける。工事は現 在のネォン灯の柱を利用す ることになっており、中元 大売出しまでには完成する。 できあがれば夜の街がこれ までより数倍明るくなり、 買物客の増加が期待されて いる。 (沼朝昭和 39 年 4 月 15 日号)」 昭和 39 年 5 月 6 日 株スー パーマルトモ第二種大規模 店舗表示 昭和 39 年 6 月 10 日 旧国 道地下道開通 昭和 39 年 7 月 1 日 淡島海 洋交園オープン 昭和 39 年 9 月 5 日 沼津ゴ ルフクラブオープン(27 ホ ール) 昭和 39 年 9 月 5 日 いさ みやアーケド街より仲見世 進出開店 昭和 39 年 9 月 13 日 コ ンビナート反対住民運動、 石油コンビナート進出反対 沼津市民総決起大会(第一 小学校校庭)に 25,000 人集 まり、9 月 18 日、市長、誘 致断念を発表 昭和 39 年 10 月 1 日午前 6時 東海道新幹線開通 昭和 39 年 10 月 3 日 沼津 軒駅前本店新築オープン 昭和 39 年 10 月 10 日 東京 オリンッピク開催 昭和 39 年 10 月 ボウルビ ルオープン(上本通り商店 街) 昭和 39 年 12 月 リコー通 りアーケード完成(昭和 37
  • 21. 21 年高島町大通り商店会から リコー通り商店会と改名 昭和 39 年 12 月 商工会議 所が「上本通り商店街総合 診断」 実施決定(昭和 40 年 1 月~3 月診断) 昭和 40 年 3 月 無形文化 財:加藤唐九朗壁陶板画: (静岡商工資金協同組合ビ ル竣工:添地) 昭和 40 年 3 月 20 日 旧国 道地下街「味の近道」開店 (8 店舗) 昭和 40 年 4 月 1 日 振興組 合沼津アーケード名店街設 立 昭和 40 年 4 月 沼津警察 署、新庁舎落成(三園町) 昭和 40 年 7 月 狩野川放水 路竣工 昭和 40 年 12 月 1 日 富 士急名店会館開店(実質平 成 25 年 3 月末で営業終了) 「明二日いっせい開店の沼 津駅前富士急名店会館は、 東京、横浜など全国にその 名を知られた老舗、有力店 が八十店近く出店するが、 当沼津市内からは、太陽堂 ヵメラ店、丸一高橋、杉浦 洋服店、増山食品、旭園本 店、秋月、マルサン書店、 大岡農園、ササール洋装店、 庄司産業、木村屋、三島屋 酒店、魚新商店、森田菓子 店などが進出することにな った。 (沼朝昭和 40 年 12 月 1 日号広告記事)」 昭和 41 年 1 月 沼津セン ター街振興組合設立昭和 41 年 5 月 いさみや倒産 (負債 8 億円) 昭和 40 年頃の沼津のタク シー会社名 ○ベルタクシー(株)○共 栄自動車(株)○御殿場自動 車(株)芙容タクシー沼津営 業所○ツバメ自動車(株)○ 沼津交通(株)○三津観光タ クシー(株)○新東海交通 (株)○伊豆箱根鉄道(株)沼 津ハイヤー営業所○大国タ クシー(株)○平和タクシー (株)○三園タクシー(株)○ 大洋交通(株) 昭和 41 年 7 月 1 日 沼津市 役所新庁舎完成 昭和 41 年 9 月 25 日 丸井 沼津店進出開店(平成 16 年 5 月閉店) 『(静岡新聞平成15年 12 月 10 日朝刊より)丸井沼津 店 5 月閉店 中心商業地集客力低下は必 至 丸井(東京)が沼津市大手町 の丸井沼津店を来年五月の 大型連休明けに閉店し、撤 退する方針を決めたことが 九日、分かった。 同店は JR 沼津駅南口に広がる商 店街の中核店舗。 市が進める駅前再開発ビル が商業施設から住居中心の 構成になったことに加え、 撤退で中心商業地としての 集客力低下は確実で、地元 商店街や沼津商工会議所は 深刻に受け止めている。 同店は七階建て、売り場面 積三干八百六十八平方㍍。 一九六六年(昭知四十一年) 九月にオープンした。しか し、売リ場が狭い上にエス カレーター設備もなく、 「店舗大型化を進めている 中で、品ぞろえや設備面で 十分なレベルにすることが できなかった」 (広報部)と いう。一時は駅前再開発ビ ルの核テナントとして入居 する話も浮上したが折り合 わず、最終的に閉店を決め た。跡地利用は決まってい ない。 中心商店街に衝撃 「街の真ん中に爆弾が落ち たような衝撃」。 沼津市の 中心商店街を引っ張ってき た丸井沼津店の閉店が明ら かになった九日、地元商店 街は驚きを隠さなかった。 歳末商戦を迎える中、商業 関係者からは「沼津全体の イメージ低下が気掛かり」 「駅前という立地がもはや 有利に働かないということ か」と不安視する声が相次
  • 22. 22 いだ。 JR 沼津駅南口から 同店を経て仲見世商店街に 抜けるのが、市内でもっと も通行客の多い場所と言わ れる。しかし、駅前では近 年、十字屋、ニチイ、長崎 屋が撤退するなど大型店が 振るわない。 同市商店街連盟の芦川勝年 会長も「これからの商業地 は立地ではなく、魅力ある 個店がどれだけ多くあるか が問われるのではないか」 と指摘する。同市が中心商 業地再生の目玉として、駅 南口で進める再開発ビルの 専門店誘致にも、丸井の撤 退がイメージ的にマイナス に働くことを市関係者は危 ぐする。山田寧助役は「商 店街のにぎわいには買い物 客の回遊性確保が重要。影 響は大きい」と懸念してい る。』 昭和 41 年 11 月 25 日 沼 津上本通り商店街振興組合 設立総会(上本通り共栄会 より) 『発展期す上本通り商店街 振興組合を結成 昭和四十一年十一月二十五 日創立総会 水銀灯設置など、商店街整 備に意欲を見せていた上本 通り商店街では、さらにそ の振興をはかるため、現在 の商店会を発展的に解消新 たに商店街振興法にのっと った「上本通り商店街振興 組治」を結成することにな り 二十五日午後一時から 沼津僧用金庫会議室で創立 総会を開く。アーケード街、 上土センター街、仲見世通 り、その他駅前周辺など市 内の商店街は年々整備がす すんで来ているため、これ らに負け ない新時代に即 した商店街作りを実現する よう同組合が結成されるこ とになったもので、市内で この種法組合を結成するの は仲見世、上土、アーケー ド街につづき、上本通りが 四番目。 創立総会では定款、事業計 画を決定したあと、役員の 選出などを行うが、新組合 員には同地区九十九店舗が 加入、アーケード(公共歩 廊) の補修、 歩車道の整備、 水銀灯など夜間照明の整備 拡張、 共同大売出し、 さ らに仲見世商店街と共同し ての仲見世通りー上本通り をつなぐ東西道路への全面、 又は両側アーケード建設事 業などを積極的に行ない、 駅に近いという地の利を生 かした消費者に好かれるシ ョツピングセンターの実現 につとめる。 また他商店街に比較して商 店の本建築が若干遅れてい た上本通りでは、共同ビル の建設気運が最近次第に高 まって来ているため、組合 が中心になってこれらの. 事業も強力にすすめて行く ことを計画している。(沼 朝昭和41年11月23日号)』 昭和 42 年 1 月 12 日 遠藤 新聞舗二階火災 昭和 42 年 1 月 20 日 静浦 ホテル閉館(昭和 10 年開館) 『静浦ホテル 昭和三十年 (一九五五)八月二九日の静 岡新聞に「十年ぶりで日本 側へ沼津静浦ホテル」とい う見出しの記事が掲載され た。 以下に引用する。 沼津市志下の静浦ホテル (経営者清水はるさん)は終 戦以来駐留軍兵の海浜保養 所として使用されていたが、 九月末日限り契約を解消す る旨同ホテルに正式通達が あり接収後丸十年ぶりで米 軍の手を離れることになっ た 同ホテルは去る廿一年 春米軍将校用の保養施設と して接収され廿七年に解除 はされたが引続き米軍と再 契約 以来下士官の宿舎に 使用されていた。建物は地 上三階地下一階、三二室で 八十五名の従業員を雇って いる。解放後は接収前の観
  • 23. 23 光ホテルで再スタートす る。』 昭和 42 年 2 月 8 日 沼津 上本通り商店街振興組合第 一期総会開催 昭和 42 年 2 月 22 日 沼津 会館全焼 昭和 42 年 7 月 吉野寿司ビ ル(上本通り商店街)竣工 昭和 42 年 7 月 15 日 家具 のカトー(上本通り商店会) 新築新装オープン 昭和 42 年 7 月 28 日 沼津 東高校、御幸町から岡宮へ 移転 昭和 42 年 8 月 30 日 沼津 市中心市街地 9 路線全面駐 車禁止となる 昭和 42 年 10 月 1 日 沼津 商業高校、丸子町から清水 町徳倉に移転 昭和 42 年 10 月 1 日 富士 急百貨店開店(実質平成 25 年 3 月末で営業終了) 昭和 42 年 10 月 1 日 桃中 軒会館開館(総工費 10 億 円:地下 2 階地上 8 階)新 築大手町 6 番地 『桃中軒は明治二十四年 (一八九一年)四月一日の創 業、秀吉は三代目である、 初代の三千三は 明治維新 のころ 徳川十五代将軍と ともに江戸を去った旗本の 一人。ーとあります。 〃 桃 中 軒 " と 言 え ば 沼 津 沼津と言えば"桃中軒"と言 っても良い程、親しめ、愛 されてきた老輔です七階の 宴会場の窓からは、駅越し に雪を戴いた富士山を望見 し、 南側の特別食堂《スタ ーダスト ・ルーム》からは、 眼下を流れる狩野川から港 湾、香貫山、そして遠く千 本浜を眺望する、まさに沼 津がそこにある感がありま した。 沼津という土地柄は、海産 物といい、農作物といい、 豊富な産物があり、それが 桃中軒のお弁当、食堂の味 に密接につながっていると は専務のお話です。 そこで消費される、お米や、 お惣菜はバク大なものがあ ります、一例をあげるとあ る農協の一日分の注文だけ で、お米で五十石とのこと、 もちろん、お米は自家精米 だそうです。 戦後、赤レンガのグリルで 親しまれていた桃中軒グリ ルが、現在の駅前ビルにな ったのが昭和四十年です。 今では、地階にパーラー、 お好み食堂。七階に特別食 堂《スターダスト・ルーム》、 宴会場《松琴・弥生》があ り、八階は、大宴会場《高 砂・富士・羽衣》、結婚式場 《鳳厘》の間があります。 七階は、他に《桂》《葵》《栄》 《翁》《翠》《錦》と名付け られた個室があり、八階イ ンペリアルフロアでは、写 真室、美容室、控室、と結 婚式の全てが用意されてあ ります。(月刊狩野川№23)』 昭和 42 年 11 月 西武百貨 店本館 7 階増築 昭和 43 年 3 月 2 日 港大橋 開通(全長 180 82 メートル、 巾 16 メートル:2 億 4690 万円) 昭和 43 年 3 月 5 日 緑屋開 店(いさみやビル:営業時 間 10 時~20 時) (昭和 51 年閉店) 昭和 43 年 4 月 原町、沼 津市と合併 昭和 43 年 5 月 我入道の 渡し終わる 昭和 43 年 6 月 ほていや 進出(仲見世「富士峰ビル」) 昭和 43 年 7 月 御殿場線 電化 昭和 43 年 新仲見世アー ケード完成 昭和 43 年 協同組合沼津 商連会館設立 昭和 44 年 沼津郵便局本 局(昭和 4 年建設)大手町 から市場町へ移転 昭和 44 年 1 月 第 6 代会 頭岡野喜一郎就任 昭和 44 年 4 月 25 日 新幹 線三島駅開業
  • 24. 24 (三島操車場の昇格 新幹 線の新駅 関係市町村で一 致 国鉄新幹線の東部駅設置間 題は関係者の熱意が急速に 高まっているが、市は近日 中に冨士川以東田方郡下ま での関係各市町村当局に呼 びかけ、実現運動をすすめ るための組織作りに乗り出 すことになった三島操車場 を昇格することに関係者の 意向が固まってきたので、 東部駅設置促進同盟会程度 の組織を再編成するととも に、国に対する強い運動を 起す計画で、四月中に組織 化を終り、地元関係代議士 の協力を得て陳情などを実 施する。国鉄などの新幹線 に対する考え方が変り、地 元の運動いかんでは実現の 可能性もあるといわれてい るだけに 東部を一丸とす る新組織の運動成果に期待 がかけられている。:沼朝昭 和40年4月1日記事より) 『 三島駅の謎 新幹線でここだけ通過線 が外側、待避線が内側にあ る、三島駅には上下各 1 線 ずつの通過線か外側に敷か れ、その内側に島式ホーム 1 面と待避線となる 2 本の 線路とが設置されている通 過線をもつ新幹線の駅のう ち、三島駅以外の各駅は皆、 内側に通過線、外側に相対 式ホームと待避線かそれぞ れ 1 線ずつという線路配置 が標準だ。 したがって、こ の駅の線路配置は他の新幹 線の駅には見られない独特 のものとなっている。 なぜこのような線路配置と なっているかというと、列 車が頻繁に折り返すことを 前提としてつくられたから だ。単に折り返すだけなら ば、通過線が内側にある他 の駅でも渡り線を設けてお けばできる。 しかし、 多 くの列車が折り返すとなる と、通過列車の運転されて いる本線を折り返し列車が 逆送したり、横切ったりす るのであまり好ましいこと ではない通過線を外側に置 き、内側の線路で折り返す ようにすれば、通過列車の 運転されている本線とは分 岐と交差だけで済む。東海 道新幹線開業当時の国鉄は こう考えて三島駅の線路配 置を決めたようだ。 三島駅の線路配置にも欠点 はある上下双方の本線の問 にホームと線路とが置かれ ているために、駅の前後で 通過線がカーブを描いてし まうのだ。ホームの幅は最 低 9 メートル、待避線の幅 は 4・6 メートルずつなので、 少なくとも 18・2 メートル は膨らんでいることになる。 因鉄の資料によればカーブ は上りの通過線だけに存在 するという。地形図で測定 すると、この曲線は三島駅 の前後それぞれ約 500 メ ー トルにわたって設けら れ て い て 、 そ の 半 径は 6000 メートル。 最高速度 時速 270 キロの列車が減速 する必要はないが、曲線に は変わりはない。カントは 70 ミリ設けられていて、 直線区間と比べれば線路の 保守は面倒だ。そのためか、 後に建設された新幹線では 折り返しが必要な場合でも 待避線を通過線の外側に取 るようになった。 ところで、三島駅の歴史は ややこしい。熱海駅から 15・87 キロ(実キロ)しか離 れていないため、東海道新 幹線の開業時には設置され ず、1969 年(昭和 44)4 月 25 日に開設されたからだ。 東海道新幹線開業後、国鉄 は温泉客でにぎわう熱海駅 への利用客のために東京熱 海問の区間列車を運転しよ うとした。しかし、 熱海駅 構内は敷地が狭く、列車が 折り返すためのスペースが ない。そこで、当初は静岡
  • 25. 25 駅て折り返し、熱海ー静岡 問は回送列車として運転す る計画を立てる。これは無 駄だと考えた国鉄は、三島 駅付近に折り返すための折 返線 1 線と車両を留置する ための電車留置線(でんり ゅうせん) (以下電留線)を 3 線を置く。 この折返線は 現在の三島駅のホーム付近 に設けられた。工事は開業 直前の1964年(昭和39)年7 月 に始まり、 1966 年(昭 和41)年9 月27日から使用 を開始している。 折返線と電留線は効力を発 し、早速拡充する必要に迫 られた。 このとき、地元から駅を設 置してほしいとの要望が出 される。検討の結果、国鉄 は必要な土地 5700 平方メ ートルを無償で提供し、工 事費 5 億 5000 万円(現在の 約 18 億 217 万円)を全額負 担するならばという条件を 付け、駅の設置が決まった。 工事は 1967 年(昭和 42)2 月にスタート。新たに 12 線 つ く ら れ た 電 留 線 は 1968 年(昭和 43)10 月 1 日 に完成し、三島駅は先に記 したとおり、1969 年 4 月 25H から営業開始の運びと なる。 東海道新幹線三島駅の現在 の乗車人員は 1 万 3696 人 (2003 年度)熱海駅の 4974 人(同)を大きく上回ってい る。三島駅の開設は地元に とっても国鉄、そして JR 東海にとっても「お得な買 い物」となったのだ。 (新幹線謎と不思議:梅原 淳著)』 昭和 44 年 5 月 26 日 東名 高速道路開通 東名高速道路 全線開通 東京と名古屋を結ぶ高速自 動車道路、 東名高速道路。 前年の一部開通に続き、全 線開通した昭和44年5月 26日の開通式の様子。東 京インターチェンジから小 牧インターチェンジまでの 東名高速全長346. 8 kmは、小牧で4年前に開 通した名神高速道路とつな がり、日本の交通の大動脈 となった。 昭和 44 年 7 月 駅前地下 道開通 昭和 44 年 7 月 21 日 アポ ロ 11 号月面着陸成功 昭和 44 年 9 月 沼津商工 会議所御幸町新築開所(昭 和 5 年以来の大手町から御 幸町移転新築)(平成 26 年 5 月まで御幸町、 新館は米 山町) 昭和 44 年 12 月 沼津御用 邸 (明治 26 年 7 月造営) 別邸としての使命終わる、 沼津市に移管。 (昭和 45 年 7 月御用邸記念公園オー プン) 昭和 45 年 1 月 5 日 駅前通 り商店街会 駅前通り商店 街振興組合に移行。(初代 理事長柴田一男氏) 昭和 45 年 1 月 沼津鳶職 組合新年梯子乗り披露始ま る 昭和 45 年 3 月 1 日 沼朝 記事「上本通りの梅原花店 脇の西への道路幅 6 メート ルを 12 メートルに拡幅整 備が立ち退きが進ます実施 がおくれている」 昭和 45 年 スカンジナビア 号 (ステラ・ポラリス号) 沼津市西浦木負 767 番地沖 に投碇昭和 45 年(1970 年) 7 月 25 日-フローティン グ・ホテル・スカンジナビ ア開業。 《平成 17 年(2005 年)3 月 31 日-フローティングレ ストラン・スカンジナビア、 ハマナ・コスタ営業終了。》 《平成 18 年(2006 年)8 月 31 日-沼津ホテル、 西熱 海ホテル、大仁ホテル、下 田プリンスホテル営業終了。 スカンジナビア号、スウェ ーデンの企業『ペトロ・フ ァースト社』へ売却、修理 のため上海に向けて曳航さ
  • 26. 26 れ沼津を出航(9 月 2 日に 和歌山県潮岬沖で沈没)。》 『スカンジナビア「思い出 ありがとう」市民らが贈る 言葉 沼津・故郷へ新たな船出 海に浮かぶホテル レスト ランとして三十五年間親し まれた元客船「スカンジナ ビア」が沼津市内浦湾を離 れた三十一日 沿岸には別 れを惜しむ多くの市民が詰 め か け 優 美 な 「 女 王」の姿が消えていくのを 見守った。出発に先立ち現 地で行われたセレモニーに は、一般市民約三百人が参 加。地元の小中学生が贈る 言葉を述べ、「たくさんの 思い出をありがとう。これ からもみんなに愛される船 でいて」などと呼び掛けた。 同船は約十日間の航行で中 国・上海へ到着し、船体を 修復した後、スウェーデ ン・ストックホルムへえい 航され、海上ホテル、レス トランとして再出発する。 (静新 06 年 9 月 1 日)』 『「スカンジナビア」・地元 住民らが保存する会(沼朝 平成17年3月15日号) 伊豆箱根鉄道の観光施設フ ローティングレストラン・ スカンジナビアが、今月三 十一日で営業を終了する。 現在、売却先を探している が、地元住民や賛同者が発 起人となり、世界的な海事 資産として、また、沼津の 観光資源としての保存を呼 び掛ける「スカンジナビア 号を保存する会」を発足。 このほど発会式をスカンジ ナビア号船内ホールで開い た。日本海洋記者クラブ事 務局長の三宅啓一さんによ る基調講演や 発起人によ るパネルディスカッション が開かれ 一般の講者とし て斎藤衛市長や市議らも参 加したスカンジナビア号は、 五、 一〇五㌧、 全長一二 七㍍。一九六九年にコクド (当時国土計画)がスウェー デンの実業家から購入し、 翌七〇年、西浦木負にアン カーを降ろして三十四年余 りになる。 かつては 「ス テラ・ポラリス」 という名 称のクルーズ客船として世 界の海を駆けめぐった歴史 がある。ノルウェーの代表 的な海運会社の船として、 一九二七年にスウェーデン の造船所で建造され、少人 数の旅客を対象に高品質の クルーズを提供する豪華客 船として造られたヨッ ト 型船体で、マストや高い煙 突があるが、当時のクルー ズ客船としては初めての試 みとなる最新のディーゼル エンジンを搭載。 アメ リ カの富豪層を顧客としたク ルージングが行われた。 四〇年代にはドイツ海軍の 占有下に置かれ、軍事的な 利用で荒れ果てた時期もあ ったが、終戦後修復されて スヴェーデンに戻り、所有 者が変わりながらも六九年 に運航を休止するまで第一 線で活躍した後 日本に売 却されたステラ・ポラリス 号は木負の地でスカンジナ ビア号に改称。日本で初め ての洋上ホテルとして営業 を始め、話題を呼んだ。し かし、バブル崩壊後の景気 低迷で売り上げが落ち、九 九年にホテル部門の営業を 休止。レストランと船内見 学の営業形態を取ってきた が売り上げが伸びず、年間 の維持管理費もかさみ、今 年に入って営業休止を発表。 売却先を探すことに。 保存会は、 三島市の IT 関 連ソフトメーカー「サンプ ラス」社長の大田黒敦雄さ んと、スカンジナビア東側 で喫茶店「海のステージ」 を経営する前島希久也さん の出会いにより、準備期間 一週間で発足の運びとなっ た。 大田黒さんは九六年以来、
  • 27. 27 スカンジナビア号にライブ カメラを設置して富士山の 画像をリアルタイムで世界 に発信するボー.ムページ 「ずっと富士山」を主宰。 五百六十万件のアクセス数 を誇る人気サイトに成長し、 高校の教科書でも紹介され ている。大田黒さんは、ス カンジナビアの営業終了に 伴いカメラの移設を検討。 ホームページで告知したと ころ、営業終了を惜しむ声 が多数聞かれ、面識のなか った前島さんからは、「スカ ンジナビア号を保存する活 動をしたい」とのメールが 寄せられた。早速 前島さ んに会いに行った大田黒さ んは互いの意思を確認 知 人らに呼び掛け 「スカン ジナビアの営業終了前に 船内で発会式を開き活動を 開始しよう」と 一週間後 の発会式の開催が決まった。 発会式では、代表に就任し た大田黒さんが、「スカン ジナビア号に富士山ライブ カメラを設置して、毎日百 力国から約四千人がアクセ スしている。スカンジナビ ア号から眺める富士山が富 士山の定番だと考えている 人も多い。歴史的な価値も 高く、 すごい船だと思う。 何とかこの場所に残すこと ができないか、皆さんの知 恵を借りて保存していきた い」と話した。 基調講演をした三宅さんは、 日本海事広報協会が発行す る海と船の雑誌「ラメール」 の編集にも携わり 、海洋レ ジャーや船舶関係を専門と するジャーナリスト。スカ ンジナビアの営業終了の話 を聞き、「ステラ・ポラリス は世界的な海事資産で文化 財。国際的な視野で完全保 存すべき」 と立ち上がり 独自に保存を呼び掛ける活 動を開始。石川嘉延県知事 や斎藤市長にも手紙を書い ている。千葉県に住むが、 沼津で保存会が発足するこ とを聞いて自費で駆け付け た。三宅さんは、ステラ・ ポラリス号が沼津に来るま での歴史を自作の模型を見 せながら詳細に説明し、「船 を、より購入金額の高い企 業に売却するのが経済原則 だが、経済原則に反しても、 文化財という立場から保存 方法の質で売却先を決める べき」と訴えた。船の保存 方法には、スカンジナビア 号のような浮体施設として の係留保存、簡易ドックや 陸上への上架保存、船体の 陸上への埋め込み保存、吃 水線上(水から上に出た部 分)の船体のみの保存など があることを紹介。 三宅さんは、「係留保存には 多額の維持管理費が掛かる ため、売却先では吃水線上 で切断され、陸上の施設と して利用される可能性が高 い。船は大気と水の境界面 上に、水中にある船体の浮 力によって存在するもの。 歴史的資産、文化財を保存 するという視点に立つと、 目に見えない部分は切り捨 てるという手法を取っては ならない」と訴えた。また、 ミカン畑に囲まれ、富士山 を望む現在地が景観的に素 晴らしいことを指摘する一 方で、「切り刻んで保存され るくらいなら、造船したス ウエーデンに買い取っても らうか、いっそのこと解体 してしまった方がいい」と 話した。引き続きパネルデ ィスカッションが開かれ、 発起人の五人が順にスカン ジナビア号に寄せる思いを 語った。 その中で前島さんは、「西浦 の自然環境とスカンジナビ ア号の美しさを楽しみにし て毎年訪れている人もいる」 と話し、NPO 法人ステップ 熱海のレーダー春江理事長 は、「素敵なキャビンで食事 をしてテーブルマナーを学