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Earlybird20170512

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  1. 1. 元アクセンチュア代表が最も後悔していること、満 足していること Swingby スウィングバイ株式会社 海野恵一 2017年5月12日 1 2017年5月度 パワーブレックファーストミーティング "Tokyo Early Bird" グローバルタスクフォース(GTF)
  2. 2. 自己紹介  2001年 アクセンチュア 代表取締役  2004年 スウィングバイ株式会社 代表取締役社長  2004年 天津日中大学院 理事  2007年 大連市星海友誼賞受賞  2012年 海野塾塾長  海野塾の経営  経営幹部に対して、リーダー育成研修の実施。  欧米並びに東南アジアでの事業推進支援。  本社も経理も中国へ ダイアモンド社  これからの対中国ビジネス 日中出版  2020年、日本はアジアのリーダーになれるか ファーストプレス  日本企業はアジアのリーダーになれるのか ファーストプレス  日本企業は中国企業にアジアで勝てるのか? スウィングバイ(株  男としての心の身だしなみはできているか? 同上  アクセンチュアでどのようにして代表取締役になれたのか?同上  Major Controversial Issues at WWll (英語) 同上 (5月出版) 海野 恵一 アクセンチュアの代表取締役の経歴と大学院運営の経験があり、現在は英語での海野塾を毎週水、土 曜日、隔週月曜日に開催し、世界の政治、経済、軍事、外交に関したリベラル・アーツを教えています。 2
  3. 3. 第1章 グローバルリーダーとは何だ。 第2章 競合相手は中国企業だ。 第3章 どうすれば勝てるのか。 第4章 敵地の北京に乗り込む。 第5章 敵が自ら弱点を告白した。 第6章 合意の糸口が見えない。 第7章 敵の董事長が信用した。 第8章 勝負の結果を社長に報告する。 2017年2月電子出版 この小説で「孫子の兵法」だけではなく、中国の儒 学を勉強する必要があることも述べている。なぜそ の必要があるのかというと日本人のリーダーシップ の根源はこの儒学にあるからだ。日本人は江戸時 代までは藩校での勉学はこの儒学だった。老子が 「無用の用」と言った言葉がそれだ。あえて学ぶ必 要がないのだが、それがないと人間としての威厳 がでない。人としての厚みがないということだ。知識 だけではダメなのだ。 主人公は勝つための作戦を徹底的に立てている。 孫子のいう「廟算」だ。そうした上で、競争相手の中 国企業のふところに飛び込んでいく。こうしたことは 日本人はできない。さらに相手の信頼を得ていく。 そうして、相手が信頼したら、相手の弱点を見つけ 出す。ところが相手はそう簡単には日本企業との 合意をしようとはしない。 最後は主人公が今まで学んで来た儒学を述べるこ とによって、相手の心を開かせるというシナリオだ。 途中、様々な課題と問題が出てくる。それを主人公 の佐々木は一つ一つ果敢に挑戦していく。 3
  4. 4. 2017年3月電子出版 この本は妻と一緒にいるときにあなたがくしゃみをし たら、「うるさい」と彼女に言われたときに、腹が立た ないようになるための本である。妻は感情的になって いるときには、あなたが何をしても彼女は面白くない のだ。そうしたときでも、あなたが平然としていられる ようになるための本である。であるから、男の修身の 本である。 妻が私の顔を見て言った。 「あなたの顔を見ていると腹がたつのよ」 「それはすまないな」 その一言だけでいいのである。そして、心が動いては いけないのである。 そうした妻の無茶苦茶な言葉とか行動に怒ってはい けない。家庭が男の修練の場なのだ。何を言われよ うと平然としていられるような心を鍛錬しなければなら ない。それができるようになれば、世の中の全てのこ とが平然と対応できるようになる。私自身はこうした修 練をしてきているので、妻の暴言には全く腹が立たな い。 中国から輸入された儒学は日本 的な儒学として大成しているので、 そうしたことを踏まえて、話の骨子 として、修身はどうあるべきかの 内容とした。四書五経の「大学」で 言う所の「修身斉家治国平天下」 をその核にして、身を修めるため には家を斉(ととの)うべきであると いう考えをもとに書いている。 4
  5. 5. 2017年4月電子書駅出版 アクセンチュアを退職して13年になるが、32年勤め、ど のようにしてトップまで上りつめることができたのかを書く ことにした。何度も失敗しながら、なぜ32年間も厳しいア メリカの企業に生き残れたのかは今から振り返っても、 言葉に言い尽くせないものがある。定年まで過ごせたこ とは色々な方々に助けてもらったからだ。仕事ができても、 この企業には残れない。 一番気をつけたことは過去のことはいい思い出になって しまうので、できるだけ、客観的に事実を書いたつもりだ。 自慢話にならないように、気をつけたが、それっぽいとこ ろもある。誇張もしないように気を配ったつもりだ。本当に 全部こういったことをやったのかと疑いたくなる内容があ るが、やってしまったのは事実である。本当の話は魑魅 魍魎なのかもしれない。 仕事以外に、青年会議所とか女性問題とか競技スキー とかをやっていたので、仕事は厳しかったが、結構余計 なことをたくさんしていた。あれほど厳しい会社だったが、 色々、仕事以外で好きなことをしていた。確かに、何年も 布団の中で、寝なかった時もあったが、それは仕事に長 時間制約されていたのではなく、仕事が好きだったから だった。 思ったのは2つある。一つはよく もまあこんなにたくさんのことをし て来たなあと自分で呆れている のと意外とアクセンチュアでは残 業をしていなかったことだ。長時 間仕事をしていたのは自分がし たくてして残業をしていた時が多 かった。そうでなければとっくに 倒れていたに違いない。 5
  6. 6. 2017年5月電子書籍出版(英語) 予定 大東亜戦争における日本軍が行った問題 本書は太平洋戦争における日本軍が犯した犯罪と 言われているような事件に対しての日本人の言うべ き内容を右でも左でもないニュートラルな立場で説 明できるようにまとめた資料である。今までこうした 網羅した資料がないのでこうしてまとめることにした。 本書の目的は外国の人たちに、大東亜戦争におけ る日本軍が行った問題を説明できるように書いてあ る。日本国内でコンセンサスが取れているわけでは なく、私個人の判断でまとめている。本書の内容は 私の意見をまとめたものであって、政府の考えと一 致してはいない。欧米の記事に基づいて書いてある ので、欧米の人たちとの討議がこの資料を読めば できるようになっている。 まとめていく過程で、はっきりしているもの、曖昧な もの、真実ではなさそうなものに分けて、記述してい る。英文はInternetから持って来たものがほとんど だが、日本人が外国人に説明することを意識してま とめてある。韓国人とか中国人とも議論できることを 前提に書いてある。 内容は以下の6項目について資 料を編纂している。 1 Comfort Woman 2 Nanjing Massacre 3 731 Force 4 Burma Railway Construction 5 Bataan Death March 6 Singapore Massacre 6
  7. 7. 第一章はアクセンチュアでの仕事のやり方について述べている。最近、 過労死とかブラック企業が話題になっているが、その原因である、仕事 に対しての過負荷とか超残業時間とかに関してはアクセンチュアが世界 一だろう。どんなに仕事を効率よくやっても終わらないような負荷がか かってくる。そうした負荷をこなせない人は残れない。仕事が飯より好き だったから平気だった。そうでなければ命が持たない会社だ。 仕事が趣味でなければ務まらない 自分一人の実力では絶対に生き残れる会社ではない 新入社員のプログラマー料金が一ヶ月200万円だった 死んでもいいからこれをしたいという気持ちになれなければ過労死だ アメリカではシステムに妥当な料金を払うが、日本では払わない 仕事が飯より好きになれなければ、早く会社をやめたほうがいい 7
  8. 8. 職種はコンサルタントではなく戦争屋だった 入社してから定年まで、オーバーペースでマラソンをしているようなものだ Talk Straight Think Straight という何でもものが言える文化があった アナリストからコンサルタントへの職種変換は全く違う業種への転職だ 第二章はコンサルティングもしていたが、多くの仕事はそうではない。お 客様の仕事の仕方を根本的に変えるのが仕事の中心だった。この企 業はそのためのノウハウを持っている。しかも、大規模の改革を行う。 だから、戦争に近い。敵はその改革に抵抗する社員だ。そうした社員が 数千人になる場合もある。そうなるとまさしく、戦争をするのと一緒で、 アクセンチュアの社員が何人も倒れるのだ。大将は絶対に倒れること は出来ない。 コンサルティングには戦略部隊とシステムの 導入をする部隊があった システムの導入をする部隊はお客様の社内 に戦争を起こす部隊だ こうした仕事はコンサルタントの仕事ではなく、 戦争屋なのだ アメリカのシステム導入とか業務改革はトップ ダウンなので、日本とは違う 8
  9. 9. 三章は仕事で失敗した話だ。システムはうまくいかない時もある。その 時には色々なパターンがあって、どう修復したのかを書いている。最 終的には失敗は許されないので、どんなことをしても成功させなけれ ばならない。そうしたいくつかの事例を述べている。こうしたビジネスに は特殊な能力を持った天才もいる。また、どんなアドバイスをしたのか も書いている。お客様の長年のビジネス慣行を覆した話もここに書い てある。 仕事では何度も失敗した システム導入に失敗した時はどうしたのか 「海野さん できましたよ」としか言わない特殊コマンド部隊の隊長がいた お客様の長年のビジネス慣行を覆すのが仕事だった 9
  10. 10. 第四章は30代で経営者に成るのだが、その心構えを書いている。家 庭を大事にしなかったことの反省とか、優秀なアメリカ人の協力を得な かったこととか、提案の仕方が全くわかっていなかったこととか、考え の発想が戦術的で、戦略的でなかったというようなことを書いている。 例えば、システムコンサルタントの料金は単価ではない。日本人はTQC 的な考えで、なんでも積み上げて考えるが、そうではない。戦略的のも のを考えなければならない。そうした考え方が出来るようになるまで、2 0年以上かかった。費用対効果の考えがわからなかった。効果が出れ ば費用はいくらでもいいのだ。 30代で経営者になった 若造に、経営者としての責任を与えて彼に成功のチャンスを与えてあげる システム導入という戦争ばかりしていても偉くはなれない 30代でお客様のトップからの信頼を得ることは大変だった 家庭を大事にすれば、仕事もうまく言ったかもしれない 自分一人で頑張らずに、もっと優秀な人たちの力を借りればよかった 私は戦術的な頭しかなかったが、もっと戦略的にお客様に接すればよかった レポートが何枚削減できるかという効果の算定はナンセンスだ 10
  11. 11. 第五章はアクセンチュアの前身であるアーサーアンダーセンに入るまで と入社してからの最初のキャリアであるプログラマーとしての仕事をどう 極めたかの話である。プログラミングではその技術を極めたことだ。トッ プレベルの技術など持っていなかったが、ハードディスクの技術マニュア ルを完璧に理解して、コーディングでは無敵になった。IOを制覇したプロ グラマーは絶対に負けなかった。 11 超人プログラマーだった 大学では勉強した記憶はない 会計事務所に勤めたが、仕事はつまらなかった アーサーアンダーセンでも会計士の仕事をしたが、結局、何もしなかった コンサルティング部門での仕事もつまらなかった アメリカのアーサーアンダーセンのすごさには圧倒させられた 1973年に、すでに全米と会話ができるオンラインシステムが入っていた アメリカで影響受けて、プログラミングが大好きになってしまった 遊ぶことも中途半端ではなかった ハードディスクマニュアルをマスターし、コーディングを極めた プログラマーからコンサルタントへ突然変身した 豚もおだてりゃ、木に登る オーナー企業のドラ息子だった
  12. 12. 第六章はヤマハ発動機での生産管理の仕事で何をしたのかを書いている。 当時としては世界最先端のMRP (Material Requirement Plannig)のシステ ムを導入した。いわゆるトヨタのカンバン・システムを世界で初めてコン ピューター化したのである。画期的であった。この時は何百人という部隊を 率いて、システム導入に抵抗する数多くの現場の社員と戦った。 物事を極めようとしたら、徹底して辛抱強く、極めるまで行うという経験をし た。どんな障害にも諦めてはいけないことも学んだ。コンサルタントとして 一社だけにフルタイムで、8年もコンサルティングすることは長すぎるが、 そんなことは決してなかった。 世界で初めてのカンバン・システムを作った ヤマハ発動機の生産管理の仕事は何と8年も続いた 全くの素人がアメリカの生産管理のコーディングを頼りに、現場を指導した その道のプロになってしまい、現場の在庫管理まで指導した 生産管理に素人だったが故に、不可能なことを実現してしまった 世界初のカンバン・システムを導入したのに、世界に展開できなかった 12
  13. 13. 第七章はそうした大規模なシステム導入を経験し、エンジニアからお客様 に営業できる経営者になるまでの道のりを書いている。浜松、名古屋、大 阪、東京と拠点を移しながら、お客様の経営者に仕事の提案ができるよ うになって行った経緯を書いている。 その中でも画期的であったのはソニーのメールシステムだった。世界最 初のインターネットの前身を作ったことだ。世界最先端を行くことはリスク もでかかったが、チャレンジした。折角作ったこうした先端技術を世界に 展開する器量がなかったのは残念だった。 エンジニアから経営者へ変身した 浜松事務所の所長とは言っても、経営者の器量が全くなかった 名古屋事務所の所長になったが、何とトヨタに一度も行かなかった 化学会社のシステムは計量単位が個数ではなかったので、大失敗をした 自動車メーカーでは業務革新のプロジェクトを行なったが、苦渋を舐めた パソコンのない時代に、ソニーに今のインターネットと同じものを導入した 13
  14. 14. 第八章は素材産業のビジネスを開拓し、その責任者になって、最終的に 代表取締役になる時までの話を書いている。素材産業は全くの新規の 市場だったので、苦労した話を書いている。この頃になると唯我独尊だっ たそれまでの考え方を改めて、アメリカのノウハウを活用する方法を身 につけることができた。こうして新しい業界にチャレンジし、化学業界と石 油業界、素材業界のトップの信頼を得ることができた。その道のプロから 彼らの業務を謙虚に学ぶ習慣ができた。 素材産業の責任者から代表取締役になった 今までの自信過剰を克服して、アメリカのノウハウを活用することができた インドネシアにまで行って、800万ドルのシステムを売ってしまった ネットでの仮想取引のビジネスを素材産業で立ち上げた ノウハウばかりでなく、欧米の実績とか人材を活用するべきだった 退職した理由はアメリカ人とイギリス人の上司に裏切られて嫌になったからだ なんと退職の記念パーティには七百人も来てくれた 14
  15. 15. 第九章はパートナーの待遇について書いてある。30代で企業の経営者 としての扱いを受け、飛行機はファーストクラスで、毎年あるパートナー 会議がどういうものかを書いている。パートナー会議は「君はすごいん だ」といったような自信を与えてくれるイベントだった。 パートナーに対する待遇はすごかった 37歳で飛行機のファーストクラスに乗れるなんて、信じられないことだった パートナー会議では、買い物ばかりしていた 15
  16. 16. 第十章は52歳で糖尿病が原因で倒れてしまった。その時に虎ノ門病院 に入院したが、それを契機に、インラインスケートを始めた。それ以来、十 数年、スケートをしている。その間に、色々なことがあったが、そうした事 件とか行動を書いている。また、スキー競技とかバイクレースもしていた ので、仕事が厳しいとは言っても結構、余裕はあった。 インラインスケートで移動していたのだ 健康を取り戻すために、52歳でインラインスケートを始めた どこに行くにも、タクシーではなく、インラインスケートだった 夜11時まで働いていた時に、鍵を落として自宅のマンションに入 れなかった 背骨を折って、身長が3cm短くなった スキー競技とかバイクレースもしていた 16
  17. 17. 第十一章は33歳から8年間、青年会議所での活動を書いている。当時 の白鳥社長から毎月50万円の経費をもらって、浜松青年会議所に入会 し、最後は国際青年会議所の副会頭、財政顧問にまでなり、その世界 会議で、数十カ国の代表を前に議長の経験をした。青年の船も企画し、 六百人を船に乗せて、台湾、香港まで行った。リーダーシップスキルの 習得とか人格形成には大いに役に立ったが、サラリーマンが参加できる 組織ではなかったが、最後までやり通してしまった。 国際青年会議所では英語で議長をした 青年会議所に入会したら、何と社長が毎月50万円の経費を認めてくれた 青年の船の責任者までして六百人を台湾と香港に連れて行った 国際会議の議長をしたが、そうしたことができる日本人はほとんどいない 世界中に友達ができて、ASEANの友人は偉い人ばかりだ 17
  18. 18. 第十二章はこうした仕事をしながら、3回も離婚した経験を書いている。な ぜ離婚したのか。楽しかった時もたくさんあったが、どういった苦労があっ たのか。そうした七転八倒の日々を書いている。私の女性関係はちょっと 特殊だったが、女性に対しては、誠意の気持ちを持ち、全て自分が悪い という考えを持って生きて来た。 一貫して、自分を守ってはこなかった。相互の誤解は数多くあったが、相 手を思いやる気持ちを持って生きて来たつもりだ。人が絡むと誰かが犠 牲になる。特に、男はお金に汚くなってはいけない。女性がお金を欲しけ れば全部あげればいいという考えで生きて来た。 三回の離婚では苦心惨憺した こうした話は黙って墓場まで持って行ったほうがいいと思っていた 一番迷惑をかけたのは私を20年待っていたアメリカ人の彼女だった 二番目に迷惑をかけたのは最初の妻だった 二番目の妻になる前の彼女には結婚しようとしていた彼氏がいた 男が嫉妬することによって、強靭な精神を作ることができる 彼女は清華大学を卒業していたので、頭が良すぎた 1980年代の終わりの中国には電話が無かった 1988年に彼女に北京に4,000万円のマンションを買ってあげた 18
  19. 19. 三番目の妻との出会いも、中国語を勉強するのがきっかけだった 二番目の妻とは東京で子供と一緒に住むことはなかった 三番目の妻と一緒に住むようになっても、彼女の夫が家に何度も来ていた 三番目の妻は中野でスナックをやっていたので、毎晩飲んでいた 三番目の妻は子供を台北に預けて、マレーシアに行ってしまった 三番目の妻は家財を全て処分して、私と離婚して、台湾に帰ってしまった 三番目の妻には出刃包丁で追っかけられた 三番目の妻と離婚してから、四番目の妻なる人と偶然に出会うことになった 私には七人の子供がいる 19
  20. 20. 第十三章はアクセンチュアを退職してから、何をしてきたかを書いている。 アウトソーシングのビジネスを8年間経験して、失敗した。コア業務のアウ トソーシングビジネスをしようとしたのだが、お顧客様は誰もが人事とか 総務の雑務を担当する人たちで、ミスマッチだった。もう一つやりたかった ことがあった。それは日本にはグローバルリーダーがいないと考えてい たことだ。そうした人材に自分もなりたかった。そうし人材になるための研 修を実行して来た。そして最初は大連研修を行った。現在は英語で毎週 二時間、世界の事象を教えている。 なんと英語で毎週二時間の講義をしている アクセンチュアを退職してすぐにアウトソーシングの会社をはじめた アウトソーシングはコア業務専門だったのが、まずかった 2000年始めに大連研修を始めたが、大成功だった 英語で毎週二時間の講義を行なっている 20
  21. 21. 現在はグローバルリーダー育成のために、海野塾を主宰し、 英語で、世界の政治、経済、外交、軍事を教えている。海外事 業展開支援も行っている。 海野塾: 隔週月曜日 朝7時半ー9時 毎週水曜日 夜6時半ー8時半 毎週土曜日 9時15分ー5時 港区芝浦4丁目2-22東京ベイビュウ803号 JR山手線浜田 町港南口より徒歩4分 https://goo.gl/maps/XkW2egjg6Mt 詳細はFacebookのTeamSwingbyのイベントを参照ください。 https://www.facebook.com/groups/134699506700277/?fref=ts 略歴 1948年生まれ。東京大学経済学部卒業後、アーサー・アンダーセン(現・ア クセンチュア)入社。以来30年にわたり、ITシステム導入や海外展開による 組織変革の手法について日本企業にコンサルティングを行う。アクセンチュ ア株式会社代表取締役を経て、2004年、スウィングバイ株式会社を設立し て代表取締役に就任。2004年に森田明彦元毎日新聞論説委員長、佐藤元 中国大使、宮崎勇元経済企画庁長官と一緒に「天津日中大学院」の理事に 就任。この大学院は人材育成を通じて日中の相互理解を深めることを目的 に、日中が初めて共同で設立した大学院である。2007年、大連市星海友誼 賞受賞。 21

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