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感性の通い合う
隙間空間の構築としての
大人の学び
石川卓弥
現代とはどのような時代だろうか?
不確実性を生きる大人の学び
 現代社会の特徴をあえて一言で表すと、高度に情報
化が進み、価値が多元化した社会である。それは知が
液状化し続け、価値を方向づける規範が見えにくくなっ
た不確実性に満ちた社会である。このような現状の下、
生涯にわたって学び続ける大人の学びが近年注目を集
めている。本稿では、大人の学びの特徴と学び続ける
ための条件について考察を進めていく。
 教育心理学者の楠見孝(2010)は、子どもの学習
は「教育による学習」が大きな部分を占めているのに
対し、大人の学習は学校以外での「教育によらない学習」
が大きな部分を占めている点を重要な特徴として指摘し
ている。つまり、子どもの場合、義務教育段階で学ぶ
内容は基本的に全国共通となっている。もちろん全てと
は言わないが、学校制度の内部において子ども達は、自
分と他者の「正解」が比較的一致しやすい領域で生きて
いると言えるだろう。
 それに対し、学校教育を離れた大人の生きる社会は、
不透明さに溢れ、自分と他者との「正解」が一致する
ことはむしろ稀である。
 ひとたび学校の外を出れば、大人は情報社会という
大海原を巧みに渡り歩いて行かなければならない。テ
クノロジーの進展により、生活は便利になった反面で、
何が物事の本質なのかが見えにくくなってしまった。
正解 正解正解正解
情報化による
知の流動化
不確実な社会で
大人が学び続ける条件とは?
納得解の生成と相互承認
 そのような現代を生きる私たちは「唯一絶対の正解
はない」という自覚を出発点としながらも、不確実なグ
ラデーションの中で課題を発見し、自分にとって腑に落
ちる解を問い続け、納得解を生成しなければならない。
そして、その自分が持つ納得した答えは、立場の異な
る他者にとっても納得した答えになっているかどうかを
常に検証可能な状況で開かれていなければならない。
仮に「自分さえ納得していれば、後はどうでもよい」と
いう態度のままであれば、多くの場合、異なる立場や
発想、信念をもつ者と激しく対立することになってしまう
からだ。
 このような価値が多元化した社会の中で大人が学び
続ける条件として、自分と異なる他者の価値観を調整
し、協働で納得解を探究しつづける公共世界の創出が
不可欠である。
 そこで、いかに十全な討議可能なエリアを創るかとい
う課題に取り組んだユルゲン・ハーバーマス(1929∼)
の思想が、大人の学びの条件を考察する上で、参考
になる。
個人の納得解 協働の納得解へ
現代の大人の学びには
感性の視点が欠如している
ハーバーマスの思想と限界
 1970 年代以降のハーバーマスは、行政・貨幣経済
システムが、人々の生活世界を植民地化してゆく事態
に対抗し、民の公共性を現代に再生させるために対等
な「理性的」市民が要求を掲げて討議し合い、互い
に納得を目指す「コミュニケーション的行為」を必要と
すると説いた。確かに、このような合理的で理性的なコ
ミュニケーションのあり方が担保されなければ、再び独
裁政治を生むこともありえるだろう。
 しかし、このような理性に依拠した討議のみで、立
場や利害の異なる人々が合意を形成していくことは可能
なのだろうか。彼の中心課題は、いかにして民主主義
的かつ十全な討議が可能な公共圏を作るかという点に
あり、それは極めて重要な課題ではあるが、討議の内
実をより深く考察する必要があるだろう。
Jürgen Habermas 1929∼
ドイツの政治哲学者。
主な著書に『公共性の構造転換』(1962 年)など
感性の視点から大人の学びを捉え直す
感性の視点の導入
 彼の思想を踏まえた上で、私は現代の大人の学びが
抱える課題を感性の視点の欠如としたい。つまり異質
な価値観を持つ他者と課題を共有し、合意を目指して
いく過程において、自分達の意見をいきなり理性的・
説得的に主張し合うだけでは不十分だと考える。つまり、
互いの主張をまずは相互に認め合う感覚を、感性レベ
ルで身体に刻み込んでいく必要がある。
 ここで注意してほしいのが、私は「理性」を「感性」
と対置させた上で「感性」のほうが優位だと主張した
いわけではない。本来、これらは単純な二項対立的な
枠組みだけでは捉えられないはずである。
 しかし、現代の市場原理のシステムの中で働く大人
は、感性よりも合理的な理性を優先されがちである。
仕事に忙殺されていると、感性の働かせ方はルーティ
ン化され、特定のやり方・見方のみで理解するのが習
慣となってしまう。そして、他のやり方や見方は自分の
枠組みの中では「正しくない」と主張し合い、出口の
見えない信念対立の無限ループにはまっていく。大人
の学びを考える上で、今一度、鈍りきった感性に光を
あてる必要があるだろう。では、感性を育むとはどうい
うことなのか。ここでは、子どもの遊ぶ「隙間の時間」
を手がかりに考えていく。
感性
理性
理性優先の現代の大人は、
感性の視点を取り戻す必要がある
子どもの休み時間を手がかりに
感性の育成を考える
子どもたちの隙間の時間
 私は大学時代に小学校で2年間ボランティアをした
経験があるが、休み時間に子ども達と一緒に遊んでい
ると、面白いことに気づいた。子どもは、最初は仲よさ
げに遊んでいても、時間が経つにつれて、ある子ども
が「次はこの玩具で遊びたい」と言い出し、一方で別
の子どもは「嫌だ。オレは鬼ごっこがしたい」と小さな
衝突が勃発し始める。まさに、信念対立の無限ループ
にはまっていくのだ。
 しかし、子ども達は次第に自分の利益・価値観をた
だ主張するだけでは、結局は互いに嫌な思いをして、
限られた貴重な休み時間がなくなってしまうことに自ら
気づいていた。そして自分達がその時に一番納得する
ルールを自分達で編み直していったのだ。子ども達はこ
うした学校という制度の隙間の時間で遊びを重ねる中
で、多様な価値観・身体が交差し、人間関係の力学
に直面しながらも、お互いの身体感覚を媒介にして、
他者との距離感や関わり方を肌で感じながら学んでい
るのである。
学校教育
競争社会に生じる大人の隙間
競争の隙間
 では、感性を押さえ込み、理性を駆動させながら競争原理
の中で働き続けている大人の場合はどうだろうか。これはスポー
ツを例にとれば分かりやすい。私は部活で硬式テニスをしてき
たが、試合では他者と競い、勝つことが目標となる。そこでは、
相手の弱点を分析して、戦略的に思考を巡らせ、行動するが、
これはまさに大人の生きる社会にはたらく理性的な競争原理と
類似している。
 一方で、競争や練習の「隙間」で遊びとして行なう場合は、
同じテニスであっても様相が全く異なる。そこでは、お互い
が心地よく長いラリーを行なう中で調和的な関係を築くことが
目的である。そして、そのためにどうすれば相手も打ちやす
いかという「配慮が伴う選択」を協働で行なっているのであ
る。そうした緩やかにお互いが創りあげるラリーの中で、自
分のスタイルを組み替えると同時に、相手がこれまで積み上
げてきたスタイルの歴史性、背景も肌で感じ取ることができる。
 つまり、競争社会の中にわずかに生じる隙間の中で、感
性を通じてお互いが心地のよい距離感を設定しながら対等
に他者の異なる物語に耳を傾けることが大人の学びには不
可欠である。そうした感性が通い合う中で、共に意味をつく
り出す時間・空間を創出していくことは重要な課題であろう。
競争社会
感性を通じた
心地よい距離感での
対等な学び
理性と感性の交差としての大人の学び
隙間に生じる学びの限界と展望
  しかし、当然ながら、そうした隙間から一歩外に
出れば再び利害関係が複雑に絡みあう社会の中で生き
ることになる。利害関係の中で意見の異なる対立主張
に公平に耳を傾け、「配慮の伴う選択」を行なうことは
確かに困難で、そんな余裕はないのかもしれない。し
かし、私はこうした経験が全く無意味だとは思わない。
何より大人の学びにとってあってはならないのは、自分
の出した考えに独善的になり、固執し続け、思考停止
状態に陥ってしまうことだからである。
 このように、競争原理からふと離れた時に偶発的に
生じるような経験を積み重ねることで、たとえ立場の異
なる相手と出会ったとしても、違う考えを持つ他者の視
点を内面化して、自分の価値観に揺さぶりをかけ、そ
れが唯一の答えではないことを認めることができるので
はないか。つまり、こうした隙間的な瞬間を、スモール
スペースとして意図的に構築していくことが、これから
の大人の学びの課題である。
 
【隙間の創出】
理性と感性の交差
個人の
納得解
協働の
納得解
不確実な競争社会

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