Shinsanmaibashijyou
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三枚橋城の関連年譜は、『沼津市史 通史編・史料編』やその他史書等により、三枚橋城関連のものを抽出し
た。概要については、史書や参考文献等により要旨記述をしました。★史料編のみ頁を示した。*印箇所は編注。
年次(西暦) 概 要 (主な出来事と城主就任)
室町時代 南北朝内乱後の室町幕府は、関東(鎌倉府)の抑えとして駿府の今川氏を駿河守護に任じ、この
地沼津郷の支配を今川氏御家人の曽我氏を領地として与えていた。
文明11年(1479) 伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)、今川氏親のため東の守りを固くするため興国寺城(善得寺
城・根古屋城)に入る。さらに後に三枚橋付近に出城を築いたとも推測できる。
文明19年
長亭元年(1487)
伊勢長氏(北条早雲)が興国寺城主となる。(今川家譜・今川記・北条五代記)
*興国寺城を拠点に、これより黄瀬川を渡り伊豆への進出の準備に入って行く。三枚橋砦は今川家の最前
線の基地でもあり、早雲の伊豆進出の足掛かり的な役割を果たしていたものと思われる。
明応2年(1493) 明応の政変。北条早雲、伊豆に攻め入る。足利茶々丸を廃して、韮山城に本拠を移す。
永禄11年(1568)
★史料編371
武田信玄、駿河に進攻、今川氏真を破って東駿河を略す。
「12月28日、由良成繁が武田軍の駿河国進攻を上杉家臣松本景繁に伝え、北条氏が沼津に陣を
置いたことなどを知らせる。」(由良成繁覚書案・上杉文書) *この時、今川氏と同盟関係にあっ
た北条氏が12日に駿河へ軍勢を派遣し、沼津(三枚橋)に陣所を置いたことを伝えている。
永禄12年(1569)
★史料編372
386
393
甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻し、北条氏康は武田信玄と薩埵山に戦う。この時
期、三枚橋城は北条方の砦として再築城されていたが北条方敗北により武田方の有に帰す。
「正月上旬、北条氏康・氏政が駿河国に進み、三枚橋城や興国寺城を乗っ取り、武田信玄と戦
う。」(北条五代記) *この時は武田信玄、一時甲州に退く。
「6月2日、駿河国に進出した武田信玄は、三枚橋城、興国寺城などに六千の兵を残して、伊
豆韮山城を攻める。」(武徳編年集成)
「6月19日、北条氏康は、洪水のため甲州へ退いた武田信玄に代って、三枚橋城、興国寺城に
三万余の兵を籠め置く。」(武徳編年集成・北条五代記)
「この冬、武田信玄が、蒲原・興国寺・三枚橋の三城を奪い、他の城も落とさんとするが、望
みを果たさず。」(北条五代記)
元亀元年(1570)
★史料編399
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武田信玄、馬場美濃守信房に最前線の防備を固めるため三枚橋城を修繕させ、高坂源五郎昌宣
にこの城を守らせ、北条氏の韮山城の監視に当たらせる。
*高坂昌宣は後の信達の父。信玄・勝頼に仕えた武田四天王の一人、前名春日虎綱、長篠の戦で討死した
高坂昌澄は昌宣の長男で信達の兄。
*武田氏の沼津への進出は、自国(甲斐国)への塩の輸送上の必要にも迫られていたとも思われる。
「4月14日、武田信玄が高坂虎綱に沼津・吉原より伊豆に出撃することを命ずる。」
(武田信玄書状写・武家雲箋)
*この時点では、沼津(三枚橋付近)は武田方の前線基地の役割を果たしていたと考えられる。
*但し、北条方の5月23日・6月1日・8月12日の記録(北条五代記・北条氏政書状)によると三枚橋の
北西の興国寺城は、まだ小田原北条方が在番している。8月12日頃には、武田勢は黄瀬川に陣取り、
連日、興国寺城や韮山城に攻撃を仕掛けている。
元亀2年(1571)
★史料編407
「正月3日、武田方が深沢城籠城の北条綱成に矢文を送る。この中に前年5月の武田信玄沼津
出陣のことが見える。」(深沢城矢文写)
*武田方は前年末12月に深沢城を攻撃しており、矢文を送った後の元亀2年正月16日に降伏し開城して
いる。この戦いにより北条方の駿河撤退は時間の問題となっており、武田・北条の対決は武田の勝利で
収束することとなる。この頃、武田信玄は三枚橋砦の周辺に在陣し全軍の指揮をしていたと思われる。
元亀3年(1572)
★史料編416
「正月8日、武田信玄が小幡全賢と小幡上野介に、北条氏と和睦し興国寺城を受け取ったこと
を伝える。」(武田信玄書状写) *興国寺城が武田方に帰す。
天正元年(1573) 4月24日、武田信玄陣中にて病死する。
天正3年(1575) 5月、武田勝頼、長篠へ出張って織田・徳川連合軍に大敗する。
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◇慶長18年、忠佐死去により継嗣なく廃城となる。以後、幕府天領として三枚橋城地は代官支配となる。
氏 名(身分) 赴任年代 支配者 氏 名(身分) 赴任年代 支配者
長野九郎右衛門(郡代) 慶長 德川頼宜(*1) 鈴木三郎兵衛(代官) 宝永6年(1709) 駿府領
佐野平兵衛(代官) 元和6年(1620) 幕府蔵人地 鈴木小右衛門(代官) 正徳2年(1712) 〃
安藤弥兵衛(代官) 元和6年(1620) 〃 小林又右衛門(代官) 正徳4年(1714) 〃
成瀬五右衛門(代官) 元和7年(1621) 〃 山田次右衛門 享保11年(1726) 〃(*3)
森川六右衛門(代官) 元和8年(1622) 〃 斉藤喜六郎 享保14年(1729) 〃(*4)
篠原小左衛門(城代) 寛永1年(1624) 駿河大納言 大屋杢之助(代官) 寛保3年(1743) 〃
長谷川藤左衛門(代官) 寛永10年(1633) 駿府領(*2) 疋田庄九郎(代官) 延享?年(—) 〃
野村彦大夫(代官) 寛永19年(1642) 〃 小川新右衛門(代官) 宝暦6年(1756) 〃
国領半兵衛(代官) 天和2年(1682) 〃 山本平八(代官) 宝暦7年(1757) 〃
小長谷勘右衛門(代官) 貞享4年(1687) 〃 宮村孫右衛門(代官) 宝暦7年(1757) 〃
大草太郎右衛門(代官) 元禄5年(1692) 〃 会田伊右衛門(代官) 宝暦7年(1757) 〃
外山五郎左衛門(代官) 元禄11年(1698) 〃 小田切新九郎(代官) 明和1年(1764) 〃
鈴木助次郎(代官) 元禄14年(1701) 〃 江川太郎左衛門(代官) 明和7年(1770) 〃(*5)
能勢権兵衛(代官) 宝永3年(1706) 〃 水野出羽守忠友(城主) 安永6年(1777) 水野藩(*6)
注:(*1)紀伊藩 (*2)駿府代官支配 (*3)三島御役所 (*4)三島御役所 (*5)韮山代官 (*6)沼津城—沼津藩 <参考/清水文書他>
○最後の三枚橋城主・大久保治右衛門忠佐
1537(天文6)年、三河(愛知県)の松平(後の徳川)の家臣大久保忠員の次男として生まれた。忠佐は各
地で奮戦し、勇名をとどろかせた戦国武将であった。有名な大久保彦左衛門の兄である。1601(慶長6)年、
三枚橋城主となり、のちに入道して道喜といった。1613(慶長18)年、77歳で死去し、東間門の妙伝寺に葬ら
れた。後継者がなかったので大久保家は絶え、三枚橋城は廃城となった。
現在、沼津市立第一小学校の校庭内に忠佐の道喜塚がある。 大久保治右衛門忠佐の墓(妙伝寺)
〇沼津藩の歴代藩主 *冒頭の年度は領主となった年代を示した。
◇大久保家(慶長6年(1601年)-慶長18年(1613年)) 譜代。2万石。大久保治衛門忠佐(ただすけ)
◇水野家(安永6年(1777年)-慶応4年(1868年)) 譜代。2万石→3万石→5万石。
① 1777年(安永6) 水野出羽守忠友(ただとも)〔小姓組番頭・御側役・若年寄・側用人・老中〕
② 1802年(享和2) 水野出羽守忠成(ただあきら)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・西丸御用人・老中(首座)・勝手用掛〕
③ 1834年(天保5) 水野出羽守忠義(ただよし)
④ 1842年(天保13) 水野出羽守忠武(ただたけ)
⑤ 1844年(天保15) 水野出羽守忠良(ただよし)
⑥ 1858年(安政5) 水野出羽守忠寛(ただひろ)〔奏者番・側用人〕
⑦ 1862年(文久2) 水野出羽守忠誠(ただのぶ)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・老中〕
⑧ 1866年(慶応2) 水野出羽守忠敬(ただのり)〔江戸城大手御門番・甲府城代〕
〔編集後記〕 編者が三枚橋城に興味を持ったのは、郷土沼津のお城でありその存在(寿命)の短さである。
戦国期には、短命な城は数多くありますが、廃城から160年間の空白があり、江戸時代の安永6年水野出
羽守忠友が初代沼津藩主となり、翌7年、三枚橋城の跡地に新沼津城を築城し甦っております。
沼津藩・沼津城関連の文献は単行本化したものを含め数多く見かけますが、この城の前身である三枚橋城
のものは少なく、「沼津市史」や他の史書の頁をめくりながら探さないと見つかりません。
調査・編集にあたっては「沼津市史」や沼津史談会の会報「沼津史談」の中の記事、明治史料館に出向き
閲覧した他の史書類等々も参考にしました。 令和元年8月 <調査・編者:沼津史談会会員 飯田善行>