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日本のビール大企業の歴史と社会的影響
クリストファー・ショーン・ガンディー(米国)
目次
はじめに
第 1 章 歴史
第 1 節 明治時代における始まり
第 2 節 キリンの始まり
第 3 節 大日本の始まり
第 4 節 大正時代
第 2 章 大きい日本
第 1 節 財閥を支持したカルテル
第 2 節 太平洋戦争以前の政府と法律
第 3 節 日本酒の衰退
第 3 章 戦後のビール
第 1 節 クラフトビールへの回帰と第 3 のビールの興隆
第 4 章 消費者について
第 1 節 ビールバーでの店主の方へのインタビュー
おわりに
注
参考文献
はじめに
日本と言うと何を思い浮かべるだろう?日本に訪れたことがない、あるいは、
日本についてあまり知らない人々にとっては、日本の文化が一番親しみ易いの
ではないだろうか。日本は世界に誇れるユニークなものが多い。日本酒もその
ひとつである。しかし、実のところ、日本酒は日本ではあまり人気がない。も
ともと日本で日本酒より注目を集めていたものはビールである。近年では、一
部の醸造者達は、キウチ1
家のようにクラフトビール造りに転換している。ビ
ール市場が成長する一方でなぜ日本酒市場は衰えてしまったのだろうか?
もちろん、状況が異なる時代がかつてはあった。しかし、今では東京を始め
日本中どこでもビールを目にすることができる。電車に乗れば、車内だけでは
なく町中に多くのビールの宣伝を見かけ、コンビニやスーパーでは、ビール売
り場の占めるスペースが広い。ビールが市場を支配しているのである。そして
そのビールは、主に、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリーのたった四社で
長い間製造されている。ビールの製造が盛んになったのは 1994 年から。ほか
にもビールを製造する会社はあったが、市場を占めたのは上であげた四社であ
った。
主に製造されていたビールのタイプは四社とも同じで the adjunct lager
である。軽くて、ほとんど味がなく、大量生産のビールである。ここ数十年で
発売されたビールは、より軽くて、味も見た目もビールだが、厳密にはビール
ではない。それは発泡酒、または、第三のビールと呼ばれ、製造者と消費者、
両方のニーズに応えるために造られた日本独特のビールである。特徴は、味が
薄く、価格が安いこと。この特徴こそが発泡酒が造られた理由だと予想できる。
そしてこの流行(傾向)は、大衆のビールに関する考え方を表している。
原料を育てるスペースもないこの小さな国で、なぜ、そして、どやって、海
外の飲み物がこんなにも人気を博し多く生産されるのだろうか?大々的に宣
伝販売されたからか?それとも人々がビールを好み、応援したのだろうか?果
たしてビールはどうやって大きな影響を日本に及ぼしたのだろうか?
明治時代から、国は政府によって支配されていた。第二次対戦前と戦中に緩
やかな権威主義が急速に推し進められ、この問題をまず見ていくには市場操作
も無視することはできない。さらに、政府はこのとき西欧の思想を急速に取り
入れ、日本は様々な側面において劇的な転換を遂げ始めた。この情報と、階層
的な社会から、全体から細部までをカバーする理論は大いに正当であるように
思われる。
状況を深く分析すると、これは事実のようである。ビールは政府と財閥と、
さらに企業そのものを含むカルテルによって支えられていた。これはビールが
日本で広まったのとほぼ時を同じくして始まったが、それが本格化したのは大
1 http://www.npr.org/blogs/thesalt/2012/09/18/161147806/japanese -sake-makers-shake-off-traditio
n-try-bre wing-craft-beer
正時代以降のことである。大企業と政府は、ビールのような国家の経済成長に
有益な製品が繁栄するように状況を改善した。しかし、大きなビール会社だけ
が、利益を創出する急速な成長に求められる大きな成果を生み出すことができ
た。これは、これらの企業の製品を向上させるために有益でないものを全て切
り捨てるということを意味していた。
本当に人々の意思によってビールは広まったのだろうか?人々はビールの
普及に一定の役割を果たしたが、その主流を担ってはいなかった。その真の担
い手は、大企業によって作られたカルテルと、彼らへの政府と財閥による支援
であった。政府が戦前にビール会社に対し、その政策を通して支配を強めたた
め、ビール会社は政府により独占を推し進められた。その力関係は体制の中に
根付いており、占領時にそれを取り除こうとしても、その構造は残った。
ビールはその原料から、戦時中に必然的に普及し、日本酒を追い越した。戦
時中、ビールはそのイメージを変え、消費者を意識した大衆向けの製品となり、
他の国々に印象付けるための、ドイツをモデルとした製品ではなくなった。財
務省の保護により、また、競合企業の不在により、ビールは日本の再建に利用
するために単純化され、保護された。しかし、これはこの構造が占領の以前に
作られたことの証明である。
第1章 歴史
第 1 節 明治時代におけるビール産業の始まり
ビールは徳川幕府時代にオランダの学者たちによって出島にもたらされて
いたが、市場に広まることはなく、日本におけるその本当の始まりは、徳川幕
府の終焉を待たねばならなかった。2
徳川幕府の時代が終わると、日本は交
易が開放され、日本人にとって興味深い西洋の品物を輸入することができるよ
うになった。もちろん、その一つがビールであった。始めに、高価で妙な味が
する製品が一般社会にもたらされ、横浜や東京といった都市で広まった。3
こ
れは 1960 年代までの日本の道路の整備状況が発達していなかったためである。
製品を遠い地域へ運ぶことは難しく、特に日本の地形ではなおさらであった。
その上、鉄道がまだ未発達であった。これらの理由から、ビールはその産地か
より遠い場所では売られなかった。4
さらに、外国人が最初にこの地域に来
て、開業していた。
2 Brewed in Japan (“p”これ か ら 全 部)P.6
3 P.6
4 P.12
第2節 キリンの始まり
当時多くの小さな醸造所がそうであったように、キリンは横浜で開業した。
この土地が選ばれた一つ目の理由は、当時その地域に大量に流通していた海外
の輸入ブランドよりも安い値段で市場に出すことができるからである。5
そ
の地域には、ウィリアム・コープランドという有名な外国人いた。コープラン
ドは、不平等条約により、外国人起業者は日本の酒税を払わなくて良かったた
め、醸造所を作ることを決めた。6
初の醸造所は「スプリング・バレー」と
いう名前であった。しかし、1882 年には倒産し、売却されることになる。
彼の土地と資産はヨーロッパと日本の投資家で構成される Japan Brewery
Company(TJB)に買収された。TJB の初代社長は、三井の重役であった馬越恭平
に移籍を持ちかけられたこともあるジェイムズ・ドッズという名の男であった。
しかし、ジェイムスの移籍が実現することはなかった。また、馬越恭平は 1892
年に日本ビールという会社のエビスを担当する横浜支店の支店長に任命され
た。7
コープランドは TJB との関係を続けていたが、1889 年にビールの製造を辞
めた後、1894 年に南アメリカに移った。1902 年に横浜に戻ったが、その後間
もなくしてこの世を去った。TJB は彼の会社に対する設立当時からの貢献に敬
意を払い、葬儀費を全て支払った。8
TJB は条約によってコープランドの会社
を手に入れることができた。なぜなら、外国人と日本人の直接的なビジネスは
禁止されていたからである。そのため、当時三菱の特別アドバイザーを務めて
いたトーマス・ブレーク・グローバーと、日本の法務省 に勤務していたカー
クウッドの二人は、投資家に対して TJB を香港にあるイギリスの会社として認
識するように意見した。また、これによって日本の外国人居住者は、パスポー
トさえ持っていれば日本人と一緒に働くこと、そしてさらに、日本人との国際
的な商取引を行うことまでも可能となったのであった。9
これを機として TJB
は外国人の影響を強く受けるようになり、西欧、特にドイツから技術を輸入す
るようになった。ここで重要なのは、TJB は当時すでに政府や各財閥との繋が
りを持っていたということである。
TJB の最初の Brew master はハンブルク出身のハーマン・へカートというド
イツ人であり、彼は 1887 年の 7 月 5 日までその役を担った。キリンの CEO は
当時の Brew master 達は、日本人に本場のドイツ人を満足させるような本物を
提供することにとても強い関心を示している、と記している。10
これは外国
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からの輸入品と競争する必要があったためである。しかし、三菱のアドバイザ
ーであったグローバーの不平等条約を利用するべきだという助言のため、TJB
は利益を上げることができた。また、彼は TJB を日本の小売業者に紹介した。
明治屋がキリンの主要国内販売業者となったのはこのためである。11
初期の
ビール業界と財閥の繋がりははっきりしていて、三菱は横浜での商品の配送会
社の設立に強い興味を示した。また、設立者の一つである明治屋との強い繋が
りを持っており、6 年間、ロンドンのビジネススクールへの留学のスポンサー
にもなっている。12
キリンは 1891 年までにその地位を確立した。市場は自然に海外に向けられ、
企業ロゴのユニコーンはギネスビールから取られた。13
東京証券取引所の設
立者であるシブサワエイキチが自身の会社のメインビールとして以来、国内に
も市場が開けた。明治屋との繋がりも強まり、最終的に特約店契約を結ぶに至
った。
一方、三井の従業員だった馬越恭平は関心をビールに移し、1900 年に日本
ビールの取締役になった。14
日本ビールはサッポロ、エビス、アサヒからな
る大日本を形作る企業である。彼はキリン/TPJ との合併を目指したが、ドッ
ズは興味を示さなかった。この時の明治屋のディレクターであったコウメイゲ
ンジロウも TJB の外国人ディレクターの影響に興味を示し、彼はこのことにつ
いての詳細を三菱の頭取であるイワサキヒサヤと議論した。
結局、東京にある三菱の本店の最上階にて、明治屋の株主によって TJB を買
収・再法人化し、Kirin Brewery Co. Ltd とする決定が下された。15
さらに、
コウメイは明治屋の取締役となったため、16
キリンの創世記には三菱との繋
がりが見られる。三菱のスポンサーなしでは、外国資本に買収されていたかも
しれない。三菱はその後、長年にわたってキリンをサポートしている。17
第3節 大日本の始まり
大日本麦酒は大阪と日本と札幌の麦酒を合併した複合企業である。この合併
によりビール市場の約 75%を占めた。しかし、この寡占状態を GHQ が解き分
社化させた。後に、そのうちの1つが元の会社名に戻したが札幌ビールの起源
はこの大日本に見る事が出来る。そしてより重要なのは、札幌ビール設立をめ
ぐる一連の流れは、1873 年に行われた内務省による政府の北海道における植
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民地政策の一環として始まったということである。18
植民地政策は当時の政府の意向を受けて行われたものであった。当時の内務
大臣、大久保利通は産業の奨励を目的として、勧業建白書という文書を出して
いる。ここからもわかるように、彼は産業の発展こそが国の発展に繋がると信
じていた。この事は、彼の有名な言葉である「富国強兵」にもこれは表れてい
る。つまり、他国に屈しない強い国家を作るためには国防は不可欠であり、そ
のためには国を富ませる必要があると言う事だった。そこで当時まだ未開拓地
であった北海道においても産業の開発の必要性を感じたのであった。19
この大
久保の考えの先陣を切ったのが黒田清隆と言う人物であった。黒田は後に農業
大臣と二代目の総理大臣を務めることになる男だが彼は、ビールの原料である
小麦・ライ麦そしてホップをアメリカで途中まで育てたものを日本に持ち込み、
北海道の肥沃な土地に持ち込み栽培するよう提案してきたホラス・カプロンと
いう男の提案を受け入れ、北海道でビールの原材料を生産し、道内のみならず
東京にも持ち込み国の産業の活性化のためこれを使おうと農業開発計画に着
手した。20
北海道の涼しい気候はビールの貯蔵と輸送に大変重要な役割を果たした。そ
こで黒田は北海道に 1876 年に醸酒所の設置を決定し、北海道における計画に
承認した。21
醸酒所の始まりは苦しいものであった。それはビールの生産計画
が不十分であったためにビールを生産するための小麦の収穫やビールの瓶を
入手する事が出来なかったためである。そこで彼らは海外からそれらを入手し
なければならなかった。22
一度ビールの生産が始まると、政府高官に普及し
た一方で陸軍の上層部にも浸透した。23
それは西南戦争の際、西郷隆盛率いる
対抗勢力に対し官軍に対して黒田は札幌ビールのビールを送ったことからも
わかる。24
しかし、こうした一連の政府による醸酒所の創設によって政府の役
人にビールが普及した事により、民間での製造が難しかった。これは政府によ
るトップダウン方式による管理があったためである。
結局、北海道開拓事務局は廃止され北海道庁の管轄に変わった。そこで札幌
にあった事務局 は日本の ビール市場 にシェアを 持ってい た大蔵商会 の持つ
TJB(後のキリン)に、北海道にあった醸酒所の一部を売却したが、その後起業
家である渋沢栄一が買収し Sapporo Breweries Company, Ltd を設立した。こ
の会社は本場のドイツのビールを追求し、キリンがやっていたような手法、つ
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まりドイツから専門の技術者を招聘した。25
しかしこのサッポロビールの自主経営も長くは続かなかった。日本ビールの
社長であった馬越恭平が三井物産の横浜支店長を務めていた事から、そのパイ
プを利用してビール会社間の争いに勝つ事や海外市場への販路拡大そして、政
府の目指す国家の経済的独立を目指すために、ビール市場の結びつきを強めよ
うと取引に参加した。そこで農業・通称大臣であった清浦奎吾・馬越・そして
三井の役人達との間で、経済的な協力的カルテルを結ぶための調停交渉に臨ん
だ。26
馬越のリーダーシップが功を奏し、サッポロ・大阪ビール(後のアサヒ)
そして日本ビール(エビス)は 1906 年 3 月 26 日、ここに合併し大日本ビールと
なった。27
その中で輸出事業の中心は三井が行った。その一方でライバルであ
ったキリンは明治屋が創設した三菱がこれにあたった。この合併に対して各社
によって見解は異なる。
サッポロによると合併の目的は日本市場における安定を目指すものだと言う
がしかし、キリンはこれに対し私利私欲によるものだとし非難している。元来、
大日本は最も大きく、生産的且つ地理的に見ても最も有力な会社を目指し、市
場の支配を目的に作られた。28
1907 年までに大日本ビールは日本のビール市場
の 72%を獲得した一方で、キリンのシェアは 20%、その他の競合他者の合計
はわずか 8%というものだった。合併による市場の拡大により安定をめざすこ
とはビール業界の成長においては確かに当時正しかったのかもしれないが、日
本企業が作るビールが日本独自のブランド性を同時に作り出す事はなかった。
これはつまりビールは未だに西洋の産物であるという消費者イメージを拭い
きる事が出来なかったと言うことである。
それは大正時代や戦間期において活躍したヨーロッパの技術者達から教わ
る原材料や生産方法を使っていたためである。さらに、新聞に広告を出したり、
輸出販路を獲得するという点で全て自分で執り行なわなければならなかった
ために、この章の最も重要であった。29
次への橋渡しとして明記しておきたい
事であるが、多くの起業家達が政府主導による経済成長政策において痛手を受
け、そして経済規模が大きく、独立した大企業のしか、このような市場におい
て経済活動を継続する事は許されなかったのである。30
第 4 節 大正時代
この時代は日本のビール会社の劇的な成長が見られる。いや、正確に言えば、
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それらは生存を許された。第2次世界大戦が始まったことによって、多くの西
洋企業が撤退した。これにはビール会社も含まれる。日本企業はこの状況を使
用するために早く動き、日本の産業全体の成長を促進した。日本はドイツと西
欧企業の撤退の競合に参入するも、日本のビール産業は忠実にドイツのプロセ
スを維持し、何人かの醸造技師は、次のパラグラフで述べる理由で残った。31
短期間の間ではあったが、キリンの醸造技師は戦争運動を手助けするために家
に帰るように命じられた。この事は、キリンに日本の機器にいくつかの能力、
およびドイツの方法に替わる新たな代替品を与えた。32
例えば、日本の知られ
ている製品のように、軽量化へゆっくり向かい始めたかもしれない。キリンは
戦後にドイツ醸造世界と関係を回復し、伝統的な醸造方法の大部分を維持する
ことができた。33
第1次大戦には、日本にはキリン、大日本、カブト、帝国ビールの4つの主
要の醸造所があった。34
シェアは上記で述べた2社の間のみで、事実位置づけ
られていたが、後期にはあまり長くは続かなかった。企業は成長していたが、
日本は製品作りのために、まだホップなどの西洋の成分に依存していた。外国
の米国局や国内商業、そして「Western Brewer」でしられる雑誌により、1915
年に日本製品のホップの品質と量は劣っており、ドイツが最高だと述べた。35
全体的に日本の醸造は驚くべき早さで拡大し、技術が広がっていったのにも
関わらず。キリンは兵庫県に拡大した。36
キリンはオリエント醸造を獲得し、
彼らの工場を獲得した。従って工場のある東北までのアクセスを手に入れた。
37
仮定する事ができるが、彼らは大日本の、大阪及び札幌の領域支配の挑戦に、
戦略的に注目したために、この動きは重要である。
1920 年、有名な恵比寿ビールの庭の創設は大日本により誕生しました。銀座
で開始し、この庭は、町にある唯[1st クラスのレストランやバーやクラシッ
クバー]であると西欧人に伝える目的であった。ビールは日本の中で拡大して
いったが、日本酒のマーケットに替わるまでには至らなかった。そのうえ、全
体的に見れば、ビールはとある階級の人々に拡大していった。野村銀行の分析
によると、消費率は 7 対 1(ビール/酒)、そしてビールは、貧しい階層の中で
次第に有名になってきていると述べた。38
日本酒については、後に、もっと個
人的に扱う事になっている。
この時代についてもっとも大きなことは、ビール会社に関して、縮小した産
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業が実施したことである。実際にこの時には、キリンと大日本のみであった、
そしてこの産業はもっと縮小していった。このことが起きた理由としてはいく
つかとても重要な理由がある、それは大部分は税金の高騰、それに加えて2つ
の世界大戦への参加、そして巨大ビジネスへの継続支援であった。また、この
時代に大日本とキリンの醸造所が、ビールカルテルを始めた。両方の製品と値
段を維持、コントロールするために、両者は国内マーケットを統制しようとし
た。39
第 2 章 大きい日本
第 1 節 財閥を支持したカルテル
1930 年の間、協力なビールカルテルの創設は、ライバル製品を負かすために
他の製品より継続して安売りすることを決める販売業者を乗っ取るために適
切に設けられた。1936 年には、大日本とキリンだけが、頂点に躍り出た、勝
利を得た会社となった。40
三井が大日本を支援し、三菱がキリンを支援してい
ることは知られていた。この後に、政府がこのことに介入することになる。
大日本とキリンのカルテルは 1928 年に著しく形成し始める。この目的は互
いのマーケットシェアと、ビール販売戦争を終わらせるための年産能力を定着
させるためである。41
しかし、その兆候は以前からあった。主要の醸造所は 1923
年に既に友好的なビール会議(ビール懇話会)を開催し、そして 1928 年には
彼らは全国販売においての、三社協定を結んだ。3社は 大日本、キリン、日
本ビール協会であった。さくらビール、以前は帝国、も九州唯一の醸造所とし
て参加した。42
小売 業者の 価格 に対す る制 御をく ずすた めに 、4社 は Tokyo Alcoholic
Beverage Wholesalers League のスポンサーになることに同意した。43
組織化
したが、事実上の店レベルで、そして安売りの制御はできなかった。44
1932 年
に連盟は Tokyo Alcoholic Beverage Sales Association に安売りしている小
売業者へ製品を配送停止するために会った。しかし、両者はビールを動かしつ
づける必要であるため、脅しはまた拒否された。45
ビール会社たちは、彼らの
好みの中で、折り合いのつく協定を、彼らの望みを支援するために、何か必要
であった。
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この頃、大日本の馬越が病気になった。死去する前、彼はキリンと対等に対
立するという厳粛な約束(固い約束)をした。これは実行された。これを実行
する前に、日本ビール協会が計画していた、小さな醸造所との望ましい合併が
あった。彼が死去した後、三菱銀行の加藤武男社長は合併交渉を仲介した。46
加藤武男と商工業大臣の中島久万吉は 1933 年7月 21 日に協定をまとめた。政
府は合併を認め、7 月 19 日に実行された。47
政府と三菱のビール産業への参加
はこの点ではあくどくなった。これにて、たった3つの主要のビール会社が残
った。さくらは直に似たようなターゲットになった。
キリンとの正式なビールカルテルを作るための大日本の協定は、大日本が日
本ビール協会を乗っ取った後、本当のきっかけであった。カルテルは既に日本
製鉄、繊維業、銀行そして機械業の間にて存在していた。48
彼らがビールの巨
大ビジネスの成長の方法を見つけ出したのは驚くべきことではない。
大日本はキリンに包括的なビール販売協定(麦酒共同販売契約)を結ぶ事を
提案した。これは新たな販売業者、ビール会社協会、によって支援された。カ
ルテルの次の目的は、残っている醸造所、つまりさくらと寿屋を乗っ取る事で
ある。49
マーケットシェア協定は以下である。
1. 各々の会社は2百万円を共同ビール販売会社の設立に投資する。
2. 両社はすべてのビールを新しい会社を通じて販売する。
3. すべての広告は販売会社から行い、そしてすべての配送に関する支出は両
社で支払う。
4. 生産量は各々の会社の売上高に基づく。大日本は 70.12%、キリンは 29.08%。
5. もし生産量が超過した場合、賠償は他の関係者に支払われる。
6. 営業や営業網、注文、特別提携店などの実際的なビジネスは各々の会社に
て取り扱う。
7. 協定期間中、新施設建設や改良を無断で実行はできない。
8. 上記は海外の工場でも同様である。
9. 本協定は5年間は有効である。50
カルテルは設立され、そして間もなく、寿屋は東京ビール会社と認知される。
大日本が東京ビール会社のシェアをすべて取得した途端に、共同ビール販売会
社に変わったたま、それは長く続かなかった。契約された通り、会社は 70 対
30(大日本/キリン)の率で保持した。51
このカルテルが設立したと同時に、他の飲食生産者よりも多くの分け前があ
る、特別契約販売網(特約販売網)を立ち上げた。特約店は 1933 年の 212 店
46 P.100
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51 P.102
舗から 1938 年の 499 店舗になった。醸造所がスポンサーとなったカフェやバ
ーも参入した。52
ビールは継続して成長するだろう、通常の大規模な販売拠点
を誘致し始めていた。
ついに、1935 年にさくらビールは大日本は、ほとんど上記で述べたキリン
との協定と同じ内容の、協定を結んだ。これにより、さくらビールは新しい販
売会社経由で販売され、年間100万ボックスのビール販売が認められた。も
しこれに満たない場合は、キリンと大日本が所有している共同ビール販売会社
は、さくらビールに弁償を支払うことになった。53
マーケットシェアの決定は
競合を停止させ、拒否できない状況に陥らせた。54
このときにはもう、キリン
と大日本が頂点に立っていた。政府が産業を支配するようになった後、さくら
は 1942 年に大日本に合併を強いられたときに廃業した。55
キリンと大日本が作り上げたグループは日本におけるビールの新時代を先
導をした。三菱財閥はキリン、三井、大日本と強固な関係となった。56
財閥は
産業の販売支援の大きな役割を果たしたが、彼らのみであったのか?
第 2 節 太平洋戦争以前の政府と法律
明治時代から政府は、既に成長戦略の一環として食品産業に興味を持ってい
た。西洋の飲食文化を取り入れることによって、政府の目的は当時の先進国と
結んだ不平等条約の条約改正であった57
。上述したとおり、政府の企画は企業
を立ち上げることであった。従って、サッポロビール株式会社を設立した。設
立の一つの理由が安全確保であった58
。その安全を確保するための最も有利な
方法は新しい税金の創設であった。
1894 年の条約改正の後、政府は直ちに輸入税を引き上げなかったものの、
1897 年に法律第 14 条として知られる特定で輸入ビールの輸入税を 25%まで引
き上げた。しかしながらビールの普及のため、認知度の低いその他のアルコー
ル類には輸入税の引き上げが適応されなかった59
。つまり、産業が成熟した後、
政府がその権利を握り始めた。
更に、政府は 1901 年と 1904 年に国産ビール製造税を引き上げた。但し、引
き上げは非常に厳しかったため、税金に見合う生産が不可能な国内の中小ビー
52 P.102
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ル製造会社の大半が一夜にして倒産してしまった60
。財務省の税金に対するポ
リシーのため、大企業のみが生き残る仕組みになった61
。政府は、むしろ国産
ビールを販売する事よりも課税することで新たな資本源を見出そうとしてい
た。 保護貿易の計画は、資本源になりうる最も有能で最大規模の企業を選択
することであった62
。財務省は、一番有能な企業が次世代まで運営を継続でき
ることを示していた63
。起業家間の競争価値が衰弱していったと言える。
政府はその後も、ビールに対する課税率の引き上げを継続し、さらには企業
間の合併の仲介等にも積極的に関与した。最終的には、産業は馬越氏の様な実
業家達が残す事ができた。馬越氏は、大日本麦酒株式会社の社長でありながら、
貴族院勅選議員であり、三井との深い関連を維持していた64
。政府、財閥、事
業間での関連がある事は否定しがたいと言える。
太平洋戦争が近づく中、政府は 1938 年度 4 月に国家総動員法に関与した。
国内の経済や産業を政府が国防目的達成のために資源を統制運用する権限を
得る事ができると言う事である。1940 には、財務省はアルコール税を見直し、
食料の供給の調整や最大化を計った。この制度は連合国軍による日本の占領の
終わりまで有効であった65
。また同省は、ビールを醸造するために使用される
材料にさらなる制限を課した66
。強めのドイツ製のビールから、今日に至るま
での口当たりの軽く弱めの製品に変化する経緯である。
醸造製法が変更したことから、戦前時代にビールの価格が固定され、B 級の
飲食物になっていた。米類が食物として必要不可欠な素材として扱われていた
ためである。そのため、日本酒産業が利益を得る事ができなくなり、1940 年
には全醸造会社が運営をする事ができなくなってしまった67
。この時から政府
はビールが日本酒を追い越す存在になることが予想されていた。
第 3 節 日本酒の衰退
前述したように、戦前まで日本酒は有益な飲料の地位を広く維持していたが、
明治時代に入りそうもいかなくなった。都会の立ち飲み屋が売る、大きなグラ
スに入った冷たくてさっぱりしたビールが、日本酒の行商人に陰を落とした。
68
それでも、この時はまだ日本酒の価格が安く保たれていたため、貧困層の
60 P.45
61 P.45
62 P.53
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66 P.114
67 P.112
68 P.17
間で人気を保っていた。69
ビール市場は、次第にと日本酒市場に取って代わっていった。ビールが話題
になり始めた 1922 年、日本酒は依然として主なアルコール飲料ではあったも
のの、日本酒とビールの生産比率はすでに7:1割となっていた。その後、1920
年代の終わりから 1930 年代へ突入する頃、生活水準の向上とともにビールの
消費率はあがった。70
しかし、それは、消費者がビールを好んだからではな
く、多くの米が軍の食料として必要となり、政府が 1937 年までに日本酒の減
産を始めたからだと言われる。残った数少ない日本酒が消費者のビール志向に
歯止めをかける一方でビールの生産量は増加していた。71
国家総動員法が施
行された 1938 年には、政府は日本酒の生産を停止し、ビール市場は確固たる
ものとなり、多くの江戸時代からの日本酒醸造者に大きな打撃を与えた。72
その際、半分近くの日本酒醸造者が転業や廃業を余儀なくされた一方で、ビ
ール醸造者は手厚く保護された。73
ビールは酒税を回収することができたし、
前述したように原料は食料として必要とされていなかったためである。戦争後
終結後、戻ってきた日本酒産業にかつての輝きはなかった。
1955 年から 1964 にかけてのビール生産高は 40 万キロリットルから 199 万キ
ロリットルに上った。1955 年、日本酒が市場の 36.9%を占める一方、ビール
は 29.3%にとどまっていたものの、1959 年にはこれらの数字が逆転、1964 年
には日本酒が 34.6%なのに対し、ビールは 53.9%を占めた。朝日ネンカンに
よると、生活水準の向上、女性消費者の増加、消費者のアルコール飲料におけ
る好みの変化、一般家庭での暖房器具の普及がビール産業の急激な成長の理由
として考えられている。74
政府は日本酒の醸造所を閉鎖せず、戦争時代にビール産業を推し進めた。ビ
ールがそれまでに日本酒に取って代わるべきだったかどうかは議論を呼ぶほ
どだ。ビールは長い間身近な飲料ではあるが、その普及率は大幅に増えた。政
府は日本酒、ビール両方に関わり、どちらかだけを無視することはできなかっ
た。今日では、日本酒の消費率は低い。75
阿部内閣総理大臣の推進するクー
ルジャパンの一貫として、日本主産業が再び日の目を浴びるかもしれないが、
今のところは、まるで日本酒が人気を博した頃のビールほどの人気しかない。
76
69 P.40
70 P.93
71 P.111
72 P.112
73 P.140
74 P.181
75 http://www.japantimes.co.jp/life/2007/04/13/food/what -the-japanese-are-drinking/#.U8KIBfmSz 0
d
76http://www.nytimes.com/2014/02/22/business/interna tional/in-sake-japan-sees-a-potential-stimul
第 3 章 戦後のビール
本物のビールの競争は 1940 年代中盤に無くなった。この間、ビール会社は
促販キャンペーンや広告に出費する必要が無く、固定的な利益が保証されてい
た。77
わずか数種類のビールが存在し、日本酒はしばしばマーケットから無
くなった。さらに、財務省の、ビールのレシピ、製造、税率などを規制する動
きは日本に現存していた Brewers に、戦時中よりもはるかに広範囲に、深い印
象を与えた。78
財務省は醸造免許を発行し、その後 50 年間、3 つの会社し
かビール産業に参入できなかった。79
1945 年から 49 年の間、財務省は利用可能な大麦の 74.5%を大日本に、25.5%
をキリンに割り当てた。この決定によってビールのシェアは、戦前に決められ
たのと同じ水準に効果的に修正された。80
さらに、財務省はビールの配送を
Beer Distribution Control Co. の管理下に置き、81
これにより 2 つの会社
と 1962 年に参入しサントリーは完全にビールのマーケットを占有するように
なった。82
独占禁止法として知られている法律 207 の発行の下、大日本は解体されるべ
き企業の一つであったが、83
後継者はこれを予期し、先を見越して企業を 2
分割する84
という対策を打っていたため、名前は変わったものの、サッポロと
アサヒとなった。85
この頃には、ビールはブランド化しており、三菱はキリンを、三井はサッポ
ロを、住友はアサヒを排他的に飲んだ。また、住友は 1960 年代に起こり得た
企業買収から保護するためにアサヒの株式を取得している。サッポロはこの間
にビールが大衆的な飲み物になったと述べている。86
ビールのブランドは、
プロフェッショナルな独自性と友好関係を示す強いシンボルとなった。1960
年からは、ビールは日本酒に影を落とし、隅に追いやり続けた。87
政府はその価格決定システムを 1964 年 9 月 1 日まで維持し続け、その後、
us.html?_r=0
77 P.115
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83 P.159
84 P.160
85 P.176
86 P.184
87 P.191
ビール会社は価格決定権を取り戻した。88
この頃までに、キリンは他社に影
を落とし、競合他社との価格競争ができるようになった。1980 年代中盤まで
には、キリンはマーケットの 60%のシェアを獲得し、サッポロは 20%、アサ
ヒが 11%、そしてサントリーが 7%であった。海外のビールは、事実上、大都
市の高級ホテル以外では飲むことができなかった。89
占有を理由としたカルテルの解体にもかかわらず、ビール会社と政府の癒着
はすぐに元に戻った。財務省は 4 つのビールの大企業の規制としての役割をし、
免許のない国内の競合他社が市場に参入できないようにした。これによって、
小売価格はほとんど 30 年間維持されている。さらに、海外からの輸入品から
の保護を目的として、世界平均の 4 倍の値段がするにもかかわらず、国産の大
麦が使用されるようになった。この協定は、GATT に触れる可能性があったた
め、毎年見直され、記録されることはなかった。90
しかしこれは、消費者がビール会社のカルテルと、それによって固定された
価格に不満を持つようになったため、変更された。固定価格に対して、主要な
小売業者が家庭にビールの値下げを提供し始めた。
第 1 節 クラフトビールへの回帰と第 3 のビールの興隆
これらの抵抗のため、財務省はついに、ビール製造免許に必要な最小生産量
を 60kL に引き下げることで、ビールのマーケットを競合他社に開いた。これ
は、地ビール産業を復活させ、ゆっくりと社会に再興し始めた。91
しかしな
がら、大企業のシェアに穴をあけるほどのシェアは未だ獲得できていない。
2000 年代初頭の最も高かった時で、クラフトビールのシェアは 5%程度である。
92
この期間、大企業は驚くほどシェアを落としているが、これはクラフトビ
ールのせいではなく、新しい種類、発泡酒と呼ばれるより軽口の飲料や、1990
年代中盤に出現した第 3 のビールによるものである。93
発泡酒と第 3 のビールは、日本のアルコール飲料の成長傾向のとても興味深
い点を示している。アサヒによってスーパードライが発売されて以来、太平洋
戦争下のドイツビールのような味からはかけ離れ、ますます軽口で風味のない
ものになっていった。今では、発泡酒と第 3 のビールは、高い酒税を逃れるた
め、麦芽を 25%以下に抑えて製造されている。驚くべきことに、これらのア
ルコール飲料は、大企業に牽引され、2001 年の売り上げは、国内のビール市
場の 30%を占めている。2005 年には、40%まで増加している。もちろん、そ
88 P.188
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れは大衆的なものとなったため、財務省はますます税金をかけることを目指し
ていて、企業にはより少ない麦芽、または、麦芽を全く用いず、代わりに大豆
やその他の代替物を用いた製品を作らせようとしている。94
最近では、消費者の好みが季節によって変わり、それらの市場は、ある意味
でファッションのようなものになっている点にも注目すべきである。95
発泡
酒や第 3 のビールの興隆が示しているのは、大方の消費者にとって、ビールが
単にのどを潤すものとなり、ビール風味の飲料がより安価な選択肢となってい
るということだ。96
第 4 章 消費者について
戦前より、ビール会社はより多くの消費者を的にし、マーケティング戦略を
行ってきた。97
1920 と 1930 年代、ハリウッド女優を真似したような、つまり、
当時の流行の先端を走っていた女性がビールの広告に多く使われた。98
現在、
ジョージ・クルーニーといった俳優が電車内のビールの広告に出演している。
だが、戦後からビール会社の目標は変わった。製品ではなくマーケティング戦
略にこだわる、を目標として掲げた。意味はビールのレシピや調味料や製造法
といったものには意図的に関心を置かず、消費者の増加のみに焦点を当てると
いうことである。99
ビールは嗜好品から単なる日用品になり、広告の中で美味
しそうにビールを飲む俳優に自分を投影しているにすぎない。100
当初、ビールは不平等条約を解消し、海外の富裕層や政府の役人に印象付け
るために政府によって選ばれたものであった。もともと政府関係で親しまれて
おり、高級品のイメージを持っていた。しかし、太平洋戦争が起こった際、ビ
ールはより安いものになり、政府にとって税収源となった。戦後、キリンはイ
メージを浸透させるために連合体を利用し、サッポロと同様に、ビールは大衆
向けの飲み物となった。101
物資の配送が政府管理下にあった時代と物資の不足は Brewers により軽い、
風味のない商品の製造を強制した。キリンによると、新しい味は消費者、特に
若者と女性に好かれるようになった。102
戦後、占領による改革により、女性
は徐々に権利を拡大していった。この新しい時代の女性は、自由な時間がたく
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102 P.156
さんあり、ビールを手にするようになった。これにより、ビアホールでビール
を飲む女性を目にするようになり、ビール会社は彼女たちをターゲットにし始
めた。103
1970 年代半ばまでに女性はテレビでのドラマやコマーシャルなど
で、さらによくビールを飲むようになり、日本におけるアルコール中毒が増加
した。104
1982 年、三菱経済研究所の調査によると、日本人男性の 85 パーセ
ント、日本人女性の 60 パーセントが定期的にビールを飲んでいた。戦後から
の大きな変化である。105
女性の飲酒の増加と共に、宣伝にハリソンフォードなどの俳優を使うように
なり、政府によって継続して援助を受けた企業の戦略に、ビールがそのような
商業的な存在になっていく傾向を見ることができる。106
第 1 節 ビールバーでの店主の方へのインタビュー
この調査が示していることを確認するために、そして彼の意見が合っている
か確かめるため に、実際 にある日本 人の方にイ ンタビュ ーした。エ ビスに
Hops125 と言う名のバーを持つイシグロタケシまたの名をグロさんである。
グロさんはクラフトビールのバーを経営しており、飲むのは、お金持ちの
人々だけだと言う。奇妙なことに、クラフトビールは、ビールが最初に出てき
たときにとてもよく似ている。政府によって課税され、輸入するのはとても赤
く、ビールの大企業は保護をうけている。これらの理由で、ビールは高いまま
なのである。
彼は、女性はクラフトビールを飲んでも、苦い味が好きにならず、それゆえ
軽い味のものを好む。このために、女性たちの間では、ビアバーでさえ、アサ
ヒスーパードライが常にメニューにありつづけ、日本人の間では人気の商品で
ある。女性も男性もそのシンプルな味が好きなのだ。
グロさんによると、10 年ほど前の男女雇用機会均等法の制定により、女性
の政治的権限はさらに強くなった。その後、女性も等しくスーパーで求めるよ
うになり、アサヒスーパードライは強くなった。彼は、女性はビールがさらに
軽くなった大きな理由であるという。
さらに、お金のある男性は、エビスのような強いビールや、IPAのような
苦いビールを好んでいる。そのうえ、若い人々は、彼らの収入ゆえに、安くて
アルコールの低いビールを選んでいる。女性により、またより重要なことに、
年齢と収入の格差により、なぜ発泡酒や第三のビールが日本や会で人気を獲得
しているのかの理由をみることができる。
103 P.185
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106 P.228
おわりに
ビールは人々に選ばれたのか、政府によってもたらされたのか。それについ
ては後に述べる。ビールは最初から、政府によって社会の上位層にもたらされ、
そしてつくられていた。産業が大きくなる 1901 年までに企業家が参入し、力
のあるものが続けることができた。
人々は本当に日本酒よりもビールのほうが好きなのだろうか。それに関して
は議論の余地があるが、ビールが、政府の助けがなければ国を代表するアルコ
ールになっていたかどうかについては明らかである。政府は約七年間に分かり
全ての日本酒工場をとめた。ただ二つの会社だけが財閥や政府によって支えら
れ、競争はなく、政府は、人々の市場のみならず、人々の好みをも独占するこ
とを許した。10 年も経たないうちに、市場はかわった。ひとたび人々がビー
ルを買えるようになると、また戦後女性が自由を手にするようになると、彼ら
はビールを、彼らの好みの軽いものに変えていった。
ビールが安く、軽いものになってしまったので、もはやかならずしもビール
に焦点を当てる必要はない。マーケティングがいまや大きな焦点であり、人々
はビールを、生産における質より、有名人や文化と結び付け始めている。
では、ビールは人々によって選ばれたのだろうか。私はそうは思わない。しか
し、いったんあたえられると、人々はそれを彼らの好みにあわせるのに苦労し
なかった。それにもかかわらず、最初は政府がそうしようとしたからであった。
人々はそれを気に入っただけだったのである。
参考文献
 Alexander, Jeffrey W.. Brewed in Japan: the evolution of the Japanese beer industry .
Vancouver: UBC Press, 2013. Print.
 Camp bell, William. "What the Jap anese are Drinking." The Japan Times 13 Ap r. 2007, sec.
Life: n. pag. Print.
 Craft, Lucy. "Jap anese Sake M akers Shake Off Tradition, Try Brewing Craft Beer." . NPR,
18 Sept. 2012. Web. 2 July 2014. <http://www.np r.org/>.
 Yang, Zhiy i, and Eric Pfanner. "In Sake, Jap an Sees a Potential Stimulus." The New York
Times 21 Feb. 2014: n. pag. Print.
 Phro, Preston. "These beer and cigarette poster from the M eiji and Showa p eriods will
confuse and enchant you!." RocketNews24 RSS. RocketNews24, 28 M ay 2014. Web. 1 July
2014.
<http ://en.rocketnews24.com/2014/05/28/these-beer-and-cigarette-p oster-from-the-meiji-an
d-showa-p eriods-with-confuse-and-enchant-y ou/>.

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