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世紀末ウイーンの成立背景
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Shinya Iwamoto
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ウィーンがどうして「音楽の都」といわれるのかを調査してみた。
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世紀末ウイーンの成立背景
1.
世紀末ウィーン 世紀末ウィーン(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる⽂文化の 爛爛熟を⽰示したオーストリア=ハンガリー帝国の⾸首都ウィーン、およびそこで展開 された多様な⽂文化事象の総称である。 特にユダヤ系の⼈人々の活躍がめざましい。広義には20世紀世界に⼤大きな影響を与 えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流流を含み、多くの場合、1938年年の アンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)までのそれも含んで呼称 する。 グスタフ・クリムト 『ダナエ』1907-‐08年 ウィーン宮廷歌劇場
1869年築
2.
世紀末ウィーン成立まで • 1804年 ナポレオン皇帝となる •
1815年 ウィーン議定書−ヨーロッパの秩序の維持 • 1848年 ヨーロッパ革命 • 1815年−1866年 ドイツ連邦 • 1804年−1867年 オーストリア帝国 • 1853年 ロシア、オスマン帝国とクリミア戦争 • 1866年 普墺戦争でオーストリア負ける • 1867年−1918年 オーストリア=ハンガリー帝国 この時代が一般に世紀末ウィーンと呼ばれる
3.
• 1867年 アウスグライヒ、オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。 宗教と信仰の自由が憲法に記される。ユダヤ人に対する居住制限 の完全撤廃。官僚を排したブルジョワ内閣の成立。日本大政奉還 •
1869年 リングシュトラーセに宮廷歌劇場が完成、モーツァルト『ド ン・ジョヴァンニ』でこけら落とし。 • 1872年 ニーチェ『悲劇の誕生』刊行。 • 1873年 ウィーン万国博覧会。万博開幕9日目の5月9日にウィーン 証券取引所の株価暴落に端を発する大恐慌がおこり、多くの破産 者が出る。ジークムント・フロイト、ウィーン大学へ入学。 • 1876年 ホテル・ザッハー開業、チョコレートケーキ「ザッハートル テ」名物となる。 • 1890年 ウィーンの人口130万人。労働者がプラーターをデモ行進 (第1回メーデー) • 1905年 ウィーンの人口、187万人に達する。フランツ・レハールの オペレッタ『メリー・ウィドウ』初演 • 1914年 皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻、サラエ ヴォで暗殺される。第一次世界大戦勃発。 • 1919年 オーストリア共和国(第一共和国)成立。
4.
ドイツ連邦(1815年 -‐ 1866年) •
ドイツ連邦(ドイツれんぽう)ないしドイツ同盟(ドイツどうめい、独: Deutscher Bund)は、旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35 の領邦と4つの帝国自由都市との連合体。1815年のウィーン議定 書に基づき、オーストリア帝国を盟主として発足、1866年の普墺戦 争のプロイセン王国の勝利をもって解消された。 • ドイツ連邦は、あくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連 合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat)でない。そのた め、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などとも訳される • オーストリア帝国(連邦議会議長)、プロイセン王国、4つの帝国自 由都市(リューベック、フランクフルト、ブレーメン、ハンブルク)など 39の領邦が同盟を構成した。
5.
オーストリア=ハンガリー帝国 (1867年−1918年) • ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主 が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家 である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる 「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガ リーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年 に解体するまで存続した。オーストリア=ハンガリーとも。 •
前身はオーストリア帝国である。領土には、オーストリア・ ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレージエン・ガリツィ ア=ロドメリア(ルテニア)・スロヴァキア・トランシルヴァニ ア・バナト・クロアティア・クライン・キュステンラント・スラ ヴォニア・ブコヴィナ・ボスニア・ヘルツェゴビナ・イストリア・ ダルマティアなど、多くの地域を抱える大国であった。
6.
オーストリア帝国(1804年−1867年) • 1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるな ど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。 • 1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間 に戦端を開く(クリミア戦争)。これに対し、バルカン半島におけるロ シアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持し た。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアと の関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシ アの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を 低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国 との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセ ン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結 果オーストリアを盟主とするドイツ連邦が消滅してその威光を失う など、徐々に国際的地位を低下させていった。
7.
世紀末ウイーンの成立背景 • ドイツから閉め出された形となったオーストリアは、1867年のアウスグライヒ(妥協) によってやむなくマジャール人の自治を認めてオーストリア=ハンガリー二重帝国 が成立した。その結果、オーストリア帝国(正式には「帝国議会において代表される 諸王国および諸邦」)とハンガリー王国は外交・軍事・一部の財政をともにするだけ で、帝国内ではそれぞれ独自の政府と議会をもつこととなった。とはいえ、この国は、 対外的に軍事的な国威発揚を続けていくことはもはや限界に達していた。19世紀中 葉から後半にかけてのヨーロッパはナショナリズムによる国家統一の旋風が吹き荒 れた時代であったが、このことは一方で、この国では二重帝国の複合民族国家とし ての存在意義を著しく動揺させるものでもあったのである。 • ここにおいてオーストリアは、排他的なナショナリズムを掲げることができず、むしろ 多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった。首都ウィーンには 将軍たちや支配層の英雄に代わって文人や芸術家たちの銅像が建てられ、かつて オスマン帝国による包囲戦に耐えた城壁は取り壊されて、跡地にはリングシュト ラーセ(環状道路)が建設された。リングシュトラーセの沿線にはウィーン宮廷歌劇 場(現在の国立歌劇場)をはじめとして、ウィーン市庁舎、帝国議会、取引所、大学、 美術館、博物館、ブルク劇場、コンサートホールなどの公共建造物、そして裕福なブ ルジョアたちの数多くの豪華な建物があいついで建設され、1873年には装いを新た にしたウィーンにおいて万国博覧会が開催された。なお、岩倉使節団もこの博覧会 を見学しており、久米邦武は『米欧回覧実記』(1878年)にその記録を残している。
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